日本史

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倭国大乱

倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀の末葉に倭国で起こった争乱である。中国の複数の史書に記述が見られる。列島規模であったとされており、日本史上初の大規模な戦争だとする意見もある。

倭国には代々男子王がいたが、倭国は争乱状態となった。争乱は何年も続いたが、最終的に邪馬台国の卑弥呼を倭国王とすることで争乱は収まった。以上の内容が、中国の正史である「三国志」(魏志倭人伝)や「後漢書」(東夷伝)に記述されている。

日本神話に倭国大乱を想定させる記述が見られないことにより、倭国大乱の存在を否定する意見があるが、神話は必ずしも歴史事実を記録している訳ではないので、この意見はごく少数派にとどまっている。また、中国文献が倭に悪いイメージを与えるため、大乱の記事を載せたとする意見もあるが、正当な史料批判とはいえない。吉野ヶ里遺跡から矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨が発掘されるなど、むしろ、考古学の見地からは、倭国大乱のあったことが裏付けられている。


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地図上の3が吉野ヶ里遺跡。

邪馬台国

邪馬台国は、「魏志倭人伝」などに出てくる国。弥生時代の2?3世紀に日本にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。

邪馬台国は元々男王が治めていたが、国家成立から70?80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。卑弥呼は魏に使節を派遣し親魏倭王の称号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。位置についても魏志倭人伝の記述が明確でなく、論争になっている。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説がある。


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邪馬台国の比定地については、「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になるため、様々な解釈がなされてきた。それらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれている。邪馬台国の所在地についての学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれていた。

【畿内説】
畿内説には、琵琶湖湖畔、難波などの説があるが、その中でも奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が有力とされる。

1.纒向遺跡
奈良県桜井市、三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期?古墳時代前期の遺跡群を指す。遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び、面積は300万m2に達する。

【九州説】
九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。

2.大宰府天満宮
菅原道真を祭神として祀る天満宮の一つ。
3.宇佐神宮
全国四万四千社と称する八幡宮の総本社である。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。
4.西都原古墳群
日本最大の古墳群である。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の市街地西方に南北に走る、標高70m程度の洪積層の丘陵上に形成されている。

九州説の一つに、邪馬台国が移動したとする「東遷説」もある。東遷説は邪馬台国が九州にあったとする九州説の1つで、他の九州説が邪馬台国と大和朝廷は無関係、あるいは対立していた等とするのに対して、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して大和朝廷になったとする。

それ以外の説
二大説に加えて、吉備、出雲、四国、尾張、千葉県、甲信、岩手県など、日本各地を邪馬台国の候補地とする説がある。畿内と九州の二ケ所に都があったとする説もある。他に琉球説、ジャワ説などもある。

弥生時代の遺跡

1.登呂遺跡は、弥生時代の集落・水田遺跡のひとつ。静岡県静岡市駿河区にある、国指定特別史跡。弥生時代後期に属し、2、3世紀ごろの集落と推定される。

遺跡は、太平洋戦争中の1943年、軍事工場建設の際発見され、戦後間もない1947年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行なわれ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居・高床式倉庫の遺構が見つかった。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。

登呂遺跡は、安倍川の分流の洪水時に押し流され土砂が堆積し、自然に堤防が出来、その上に造られている。ムラは、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。

現在遺跡は、登呂公園として整備され、住居などが復元されているほか、遺跡についての資料がある登呂博物館が隣接して建てられている。


2.唐子・鍵遺跡

唐古・鍵遺跡は奈良盆地中央部、標高約48m前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万?。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。1999年に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。

全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。


3.吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡は1986年からの発掘調査によって発見された、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。現在、国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、日本100名城に選出されている。

日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた時代の遺跡。日本最大の遺跡で、日本の歴史を解き明かす上で大変貴重な資料などがあります。

現在、跡地にある吉野ヶ里歴史公園は、「弥生人の声が聞こえる」を基本テーマに、遺跡の保存や発掘物の展示などを通じ、弥生時代を体感できる場を作り出し、情報発信の拠点とすることを目的に作られた。


4.板付遺跡

板付遺跡は、福岡市博多区板付にある遺跡。縄文時代晩期から弥生時代後期のもので、低台地上の環濠集落と周辺の沖積地に広がる水田跡、墓地などが見られる。国指定史跡。竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、資料館もある。

1978年に、福岡市教育委員会による発掘で、弥生I層(弥生時代前期)より下の縄文時代晩期末の地層から水田跡と農機具、用水路に設けられた井堰などが確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。本格的な稲作が行われた縄文水田として話題になったが、学説によっては弥生時代早期だともされる。日本での初期集落、稲作を知る上で重要な遺跡である。

弥生前期から中期にかけての出土品は、磨製石鏃が12、石剣1口である。


5.紫雲出山遺跡

紫雲出山は、香川県三豊市詫間町にある山で、瀬戸内海に突き出た荘内半島内に位置し、瀬戸内海国立公園内にある。

遺跡は、紫雲出山山頂にある。土器をはじめ多くの出土品がある。 瀬戸内海沿岸などに多い高地性集落。


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