日本史

日本史の各出来事を地図などを使って紹介

壬申の乱

壬申の乱は、672年に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子である大友皇子に対し、皇弟である大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

近江大津宮
近江宮とも大津宮とも呼称される。滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。


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飛鳥
現在の奈良県高市郡明日香村あたりを指す地域の名。周囲を山々や丘陵に囲まれた小盆地である。


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660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇は、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。

672年1月10日、近江宮において、天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は7月27日に吉野を出立し、伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、8月3日に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備、筑紫に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が飛鳥の古い都に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7日に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。8月23日に瀬田橋の戦いで近江朝廷軍が大敗すると、8月24日に大友皇子が自決し、乱は収束した。673年2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち、服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

藤原京

藤原京は、690年に着工され、694年に完成した日本史上最初の条坊制を布いた本格的な中国風都城。この都城は、周礼が説く思想を表していたとされている。現在の奈良県橿原市を中心京域としている。

藤原京は694年に飛鳥から遷都された。一説に持統天皇は12月6日の昼前に飛鳥浄御原宮を発ち遷御されたとされる。710年に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間、日本の首都だった。扶桑略記によれば、711年に宮が焼けたとされている。

現在は、奈良県橿原市高殿町に藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。2007年1月には、日本政府は世界遺産登録の前提となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連遺産群」を登録した。


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1.藤原宮跡

2.藤原京朱雀大路跡

3.平城京
いわゆる奈良の都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市および大和郡山市近辺に位置していた。