日本史

日本史の各出来事を地図などを使って紹介

墨俣川の戦い

墨俣川の戦いは、1181年4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(今の長良川)において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。


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平氏政権は、前年1180年10月の富士川の戦いで源頼朝の関東政権軍に敗れたが、再度、関東政権軍を追討するため、1181年4月、平重衡を将とする軍を東国へ派遣した。それに対して、源行家の軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。行家は、関東政権とも距離を置いた独自の勢力となることを企図しており、いわば関東政権へ恩を売るために平氏軍を待ち受ける役割を負ったとされている。両軍は、墨俣川を挟んで対峙したが、行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河した。しかし、平氏軍は濡れている兵士が敵であることに気付き、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた源義円(頼朝の異母弟)、同重光(尾張源氏)、同頼元、同頼康(ともに大和源氏)といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男行頼が敵軍の捕虜となっている。行家はその後、三河の矢作川まで撤退したが、平氏軍はさらに追撃した。

墨俣城

鹿ケ谷の陰謀

鹿ケ谷の陰謀は、平安時代の1177年6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件である。京都、東山鹿ヶ谷の静賢法印の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。


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1176年6月に建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。相前後して、高松院・六条上皇・九条院が亡くなり、政界はにわかに動揺する。

1177年3月22日、山門(比叡山延暦寺)の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした。発端は西光の子・師高が加賀守となり、目代・師経が白山の末寺・宇河寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。

4月28日、「太郎焼亡」と称される大火が発生、大極殿および関白以下13人の公卿の邸宅が焼失して、人々に衝撃を与えた。座主配流に反発する大衆が明雲の身柄を奪回したため、後白河は平清盛を呼び出し山門攻撃を命じた。清盛は攻撃に消極的だったが後白河に押し切られる形となり、近江・美濃・越前の武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。

出撃直前の6月1日、清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した。『愚管抄』によれば、後白河が静賢の鹿ケ谷山荘の御幸した際、成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという。また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。

謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側が院近臣勢力を潰すためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。

刀伊の入寇

刀伊の入寇は刀伊の来寇ともいい、1019年に遼国支配下の満州(中国東北部)を中心に分布した女真族(満州民族)と見られる海賊船団が壱岐・対馬を襲い、更に筑前まで攻めてきた事件。。女真族は、後に金国、さらに17世紀に清を建国する。


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1.満州
日本で満州と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の三省と内モンゴル自治区の東部を範囲とする。

2.筑前国
筑前国は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つである。西海道に含まれ、その領域は現在の福岡県西部を占める。

3.対馬
対馬は、日本の九州の北方玄界灘にある長崎県に属する島である。長崎県では最大の島であり、全国においても、本州・北海道・四国・九州の主要4島と北方領土を除いて、第6位である。

4.壱岐島
九州北方の玄界灘にある島。長崎県に属す。

地図には、それぞれの地域の中心くらいに目印をおいた。


刀伊は賊船約50隻の船団を組んで対馬・壱岐を襲撃し、壱岐守理忠を含む多くの島民を殺害・拉致した後、筑前国怡土の郡に襲来、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らしまわった。これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちにあい、逃亡したと記されている。

当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、以前に新羅の海賊が九州を襲ったこともあってか、太宰府や朝廷は半信半疑であった。

結局、賊が高麗人でないと判明したのは、7月7日、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近(ながみねのもろちか)が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、太宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。

「刀伊」の主流は恐らく満洲民族の前身である女真族であったと考えられている。当時の女真は農耕の習慣を持っておらず、代わりに農耕民族を拉致して自己の勢力圏内で農耕に従事させて食糧を確保していたとも言われている。このため、入寇の目的としては単なる海賊行為の他にこうした農耕民族住民の確保があったとも言われている。

保元の乱

保元の乱は、平安時代の1156年鳥羽法皇の死後に、皇位継承の争いで崇徳上皇と後白河天皇が対立し、摂関家内で藤原忠通・頼長兄弟が対立して、天皇側が勝利した事件である。

1.源為義の墓
京都の下京区朱雀裏畑町にある権現寺の横に、源為義の墓と伝えられる石塔がある。

2.鴨川(賀茂川)
両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。

3.高松神明社
崇徳上皇側の白河北殿に対して後白河天皇の本拠地。


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1141年、鳥羽法皇は待賢門院との子である崇徳天皇を退位させ、美福門院との子である躰仁親王を即位させた(近衛天皇)。

1155年に近衛天皇が崩御すると崇徳上皇は御子の重仁親王の即位を望むが、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す雅仁親王を後白河天皇として即位させてしまう。崇徳上皇は深くこれを怨んだ。摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近した。

崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集める。上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康らが味方する。兵力的には天皇方が優勢であった。

1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、両派の衝突は不可避の情勢となった。

1156年7月6日、宇治の警護にあたっていた平基盛が、上皇方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治を捕える。

7月10日、両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。上皇方では為朝が高松殿を夜討して天皇を奪うことを献策したが、頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けた。一方、天皇方の軍議では義朝が夜討を献策してこれが容れられる。

7月11日未明、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて白河北殿を奇襲。清盛が為朝の守る西門を攻めるが、為朝の強弓の前に打ち負かされる。代わって義朝が西門を攻めるも、これまた為朝の強弓に撃退される。天皇方は頼政、源重成、平信兼らの軍兵を投入するが、上皇方は各門で奮戦して激闘が続く。

義朝は後白河天皇に火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放火、火が燃え移ったため上皇方の兵は先を争って白河北殿から逃走。戦闘は終結する。

この乱は、3年後の平治の乱の遠因ともなり、さらには日本最初の武士政権である平氏政権の成立、また関東武士団を基盤とする鎌倉幕府の成立をもたらすこととなる。

応天門の変

応天門の変は、平安時代前期の866年に起こった政治事件である。

応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。


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1.応天門
平安京大内裏にあった門で、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院の正門であった。朱雀門のすぐ北にあり、朱雀門・会昌門と並ぶ重要な門であった。

地図上には過去に応天門があった、およその位置を示している。


866年閏3月10日、応天門が放火炎上する事件が起こる。朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をのろって火をつけたものだとされた。

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。参議藤原基経がこれを父の太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。

8月3日、鷹取が応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の子女が善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたと言われる。鷹取は左検非違使に引き渡され、天皇は勅を下して伴善男の取調べを命じた。伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問されるが、彼らは犯行を認めなかった。

9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。

この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。

壇の浦の戦い

壇ノ浦の戦いとは、平安時代後期の1185年に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた合戦。源氏と平氏の最後の戦いで、源氏が平氏を滅亡させた。

1180年の以仁王の挙兵から1185年までの争いを「治承・寿永の乱」と言うが、その最後の戦いが壇の浦の戦いだった。

平氏は源氏に追われて、最後に長門壇の浦まで追い詰められた。
そして安徳天皇と平氏は壇の浦に沈んだ。



関門海峡近くにある、みもすそ川公園。その中に「壇の浦古戦場址」の記念碑がある。みもすそ川公園内には、源義経と平知盛の像が並び、NHK大河ドラマ「義経」出演者の記念手形もある。 また、カノン砲模型なども置かれていて、観光名所となっている。大歳神社などの源平ゆかりの地を巡るツアーもある。



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