日本史

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観応の擾乱

観応の擾乱は、南北朝時代の1350年から1352年の観応年間に頂点に達した室町幕府内の権力闘争。この騒乱に付随して南朝側による南北朝の統一である正平一統が一時的に生じた。


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北朝を擁立し、京都で成立した初期の足利幕府においては統治機構が未整備で、足利家の家政機関を利用しての統治が行われていた。将軍の足利尊氏は、鎌倉幕府の討幕や、建武の新政からの離反などにおいて尊氏を積極的に補佐した実弟の足利直義に政務を任せており、訴訟関係をはじめとする幕政は直義が司っていた。尊氏は足利家当主としての地位や軍事的指揮権は保持し、政所や侍所などの家政機関は管轄下に置いていた。この政治権力の分立状態は「両将軍」と評された。

1347年に入ると、南朝が京都奪還の動きを見せる。足利直義は尊氏の意向を受けて細川顕氏らを派遣してこれを討とうとするも失敗する。一方、高師直は1348年の四條畷の戦いにおいて楠木正行ら南朝方を撃破し、更に勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、南朝を賀名生(奈良県五條市)へ逃げ込ませた。この結果、幕府内における直義の発言力の低下と師直の台頭が生じ、両派の対立に一層の拍車がかかった。

1349年6月、上杉重能や畠山直宗、禅僧の妙吉らは直義に進言し、直義に将軍尊氏に対して高師直を讒言させる。古典「太平記」によれば直義派による師直暗殺騒動も存在したとされる。6月、師直は直義の要請で執事を解任される。直義は北朝の光厳上皇に師直追討の院宣を要請して師直を討とうとするが、8月12日、師直は河内から上洛した高師泰とともに手兵を集め、直義に対して武力による先制攻撃を行う。

1350年、北朝は元号を「観応」に改める。10月、尊氏は九州で勢力を拡大する直冬追討のために出陣すると、京都では直義が都を出奔する。尊氏は進軍を続けるが、直義は畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏をはじめ、山名時氏、斯波高経らを味方に付け、関東では12月に上杉憲顕が高一族の高師冬を駆逐する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わる。観応の擾乱のはじまりはこの時点に求められる。11月には直義は高兄弟の追討のために諸国の兵を募る。光厳上皇による直義追討令が出ると、12月には直義は南朝に降る。

1351年1月、直義軍は義詮を京都から追い、北朝を確保する。2月、尊氏は播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで直義に敗れ、師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦する。



幕府内部では高一族の滅亡後も直義派と反直義派との対立構造は存在した。佐々木道誉や赤松則祐らが南朝と通じて幕府に反すると、尊氏は近江へ佐々木、尊氏の子の義詮は赤松を討伐のために播磨へそれぞれ出兵する。だが、尊氏・義詮らと道誉らは密約があり京都への挟撃を試みたともいわれ、直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。

一方朝廷では、尊氏が南朝に降伏した事により北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の観応2年から南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ。南朝の勅使が入京して具体的な和睦案が協議された。南朝側は、北朝の意向により天台座主や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還した事の取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。正平一統が成立し、南朝の後村上天皇が帰京する噂が立つと、各地で南朝方の活動が活発化し、本拠を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)まで移転する。



この乱により、足利尊氏・直義に分割されていた将軍の権力は尊氏のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化されるが、高師直によって吉野を陥落させられ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝に、直義・尊氏が交互に降るなど息を吹き返し延命したため、南北朝の動乱が長引いた。

四條畷の戦い

四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の1348年1月5日、河内国北條(現在の大阪府四條畷市・大東市)において、南朝方の楠木正行率いる約3千騎と、足利尊氏の腹心である高師直率いる6万から8万の軍勢が戦った合戦である。

また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条(縄手)付近で戦いがあったという説もある。


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1336年、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉、天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。1347年9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。

足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。

楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。戦後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぐ。

「太平記」では楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれているが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようである。



四條畷神社は大阪府四條畷市にある神社である。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神とし、以下の一族の将士24人を配祀している。

土岐康行の乱

土岐康行の乱は、室町時代の1389年から1390年に守護大名の土岐康行が室町幕府に討伐された事件である。美濃の乱とも呼ばれる。

美濃源氏の土岐氏は美濃国で大きな勢力を有し鎌倉幕府の有力御家人となった。土岐頼康は美濃国・尾張国・伊勢国の3ヵ国の守護に任ぜられて評定衆に連なり、土岐氏の最盛期を築いた。

1387年、頼康が死去し、養子の康行が継いだ。康行は従兄弟の詮直を尾張守護代とし、弟の満貞を京都代官として義満に近侍させた。

将軍専制権力の確立を目指す義満は統制が困難だった有力守護大名の弱体化を狙っていた。1388年、義満は美濃国、伊勢国の守護職の継承のみを康行に許し、尾張国は満貞に与えてしまった。満貞は野心家で尾張守護職を欲して度々義満へ康行と詮直の讒言をしていた。義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を図ったのである。

これに激怒したのが尾張守護代の詮直で、満貞は尾張国へ下向するがこれを拒んで尾張国黒田宿で合戦になり、満貞は敗れて敗走した。京へ逃げ帰った満貞は康行と詮直の謀叛を訴えた。義満はこの機を逃さず、1389年4月に康行を謀反人と断じて討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠・頼益父子が征討に向かった。1390年閏3月に康行は美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)で挙兵するが敗れて没落した。

康行の美濃国・伊勢国の守護職は没収され、美濃国は戦功のあった土岐頼世(頼忠)、伊勢国は仁木満長へ与えられた。義満は土岐氏の断絶を考えたが、雲渓支山のとりなしでこれを思い止まり、義満は頼世へ支山に感謝して在所を寄進するよう命じ、頼世は美濃国玉村保を寄進したという。


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地図上の印は、土岐康行が挙兵し敗れた美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)を示している。
細かくは町役場を指しているので、大まかな位置を掴むのに役立てて欲しい。