雪舟の水墨画
雪舟は1420年生の1506年没で、15世紀後半室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖とも称えられる。日本の水墨画を一変させた。
諱は「等楊(とうよう)」、もしくは「拙宗(せっしゅう)」と号した。備中国に生まれ、京都・相国寺に入ってから周防国に移る。その後遣明使に随行して明に渡って中国の水墨画を学んだ。作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくした。大胆な構図と力強い筆線は非常に個性的な画風を作り出している。
現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。このため、花鳥図屏風などに「伝雪舟筆」される作品は大変多い。真筆であるか専門家の間でも意見の分かれるものも多々ある。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。
代表作
「山水長巻」「夏冬山水図」「天橋立図」「破墨山水」「慧可断臂の図」「秋冬山水」「花鳥屏風」
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1420年備中国赤浜に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。
1454年ごろ周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵を構える。1465年ごろ、楚石梵琦による雪舟二大字を入手し、龍崗真圭に字説を請。以後、雪舟を名乗ったものと思われる。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたと思われるが、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はない。
1468年に遣明使船で明へ渡航。約2年間中国で本格的な水墨画に触れ、研究した。1481年秋から美濃国へ旅行。没年は、確実な記録はないが1506年とするものが多い。1502年とする説もある。雪舟の生涯には没年以外にも謎とされる部分が多い。
雪舟についてこんな伝説が残っている。
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
諱は「等楊(とうよう)」、もしくは「拙宗(せっしゅう)」と号した。備中国に生まれ、京都・相国寺に入ってから周防国に移る。その後遣明使に随行して明に渡って中国の水墨画を学んだ。作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくした。大胆な構図と力強い筆線は非常に個性的な画風を作り出している。
現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。このため、花鳥図屏風などに「伝雪舟筆」される作品は大変多い。真筆であるか専門家の間でも意見の分かれるものも多々ある。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。
代表作
「山水長巻」「夏冬山水図」「天橋立図」「破墨山水」「慧可断臂の図」「秋冬山水」「花鳥屏風」
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1420年備中国赤浜に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。
1454年ごろ周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵を構える。1465年ごろ、楚石梵琦による雪舟二大字を入手し、龍崗真圭に字説を請。以後、雪舟を名乗ったものと思われる。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたと思われるが、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はない。
1468年に遣明使船で明へ渡航。約2年間中国で本格的な水墨画に触れ、研究した。1481年秋から美濃国へ旅行。没年は、確実な記録はないが1506年とするものが多い。1502年とする説もある。雪舟の生涯には没年以外にも謎とされる部分が多い。
雪舟についてこんな伝説が残っている。
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・ザビエルは、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名だが、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」という呼び名を用いていた。
日本国内にはザビエルの名を冠する教会が35ある。そのうち山口サビエル記念聖堂、鹿児島カテドラル ザビエル教会、神田教会にはザビエルの遺骨が安置されている。
神田教会
ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。
中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日に鹿児島に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職、忍室との宗教論争を行った。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。
1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。
1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着した。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われた。その場所が現在では「ザビエル公園」として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられている。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する。
ザビエル公園
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ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が住まわれる御所も荒れ放題であった。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶された。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。
1551年3月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々をもって山口へ向かい、再び領主の大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、どこでも貴人と会見する時は外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を大内義隆に献上した。大内義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意した。山口で布教しているとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。
1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代りに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着した。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去った。46歳であった。
遺骸は上川島で一度埋葬された後、マラッカを経てゴアに移され現在はボン・ジェズ教会に安置されているが、遺体の一部は、ローマ・ジェズ教会に移された。
ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖された。
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名だが、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」という呼び名を用いていた。
日本国内にはザビエルの名を冠する教会が35ある。そのうち山口サビエル記念聖堂、鹿児島カテドラル ザビエル教会、神田教会にはザビエルの遺骨が安置されている。
神田教会
ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。
中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日に鹿児島に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職、忍室との宗教論争を行った。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。
1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。
1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着した。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われた。その場所が現在では「ザビエル公園」として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられている。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する。
ザビエル公園
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ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が住まわれる御所も荒れ放題であった。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶された。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。
1551年3月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々をもって山口へ向かい、再び領主の大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、どこでも貴人と会見する時は外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を大内義隆に献上した。大内義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意した。山口で布教しているとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。
1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代りに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着した。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去った。46歳であった。
遺骸は上川島で一度埋葬された後、マラッカを経てゴアに移され現在はボン・ジェズ教会に安置されているが、遺体の一部は、ローマ・ジェズ教会に移された。
ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖された。
布部山の戦い
布部山の戦いとは、1570年に山中鹿介率いる尼子再興軍とそれを阻止しようとする毛利家との間に起こった戦いである。
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1566年11月28日に月山富田城が開城し、尼子家が滅びた後、尼子家家臣である山中鹿介・立原久綱達が尼子家再興を目指すため、1568年、京都・東福寺に逃れていた新宮党の尼子誠久の子である尼子勝久を還俗させ、擁立した。 翌年、但馬、隠岐を経て出雲に上陸した後、尼子再興の伝令を発すると、5日後には尼子勝久の元に尼子家旧家臣、3000の軍勢が集まった。
最初に新山城を陥落させ、出雲の旧領をほぼ制圧し、破竹の勢いで月山富田城に向かったが、守兵300であるにも関わらず天野隆重が守る難攻不落の険城をなかなか落とすことができなかった。隠岐為清の反乱等も重なり手をこまねいていた所へ、伊予・北九州へ出兵していた毛利家主力が戻り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景以下、13000の大軍は石見から出雲を目指した。これを知った尼子勢は毛利勢を食い止める為、末次城に尼子勝久を残して石見路から月山富田城に行く際に通る布部山で毛利を食い止める事とした。
尼子勢は布部山の2つしかない登り口(水谷口・中山口)に山中鹿介を大将とする総勢6800の兵を布陣し、万全の体制で毛利軍を待ち構えた。戦いは当初地の利に勝る尼子勢が優勢だったが、攻め落とすのが難しいと判断した吉川元春が住民に間道を教えてもらい、別働隊を率いて裏から布部山の頂上に登りそこから尼子軍の本陣を強襲したところ尼子勢は総崩れとなり敗走した。
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1566年11月28日に月山富田城が開城し、尼子家が滅びた後、尼子家家臣である山中鹿介・立原久綱達が尼子家再興を目指すため、1568年、京都・東福寺に逃れていた新宮党の尼子誠久の子である尼子勝久を還俗させ、擁立した。 翌年、但馬、隠岐を経て出雲に上陸した後、尼子再興の伝令を発すると、5日後には尼子勝久の元に尼子家旧家臣、3000の軍勢が集まった。
最初に新山城を陥落させ、出雲の旧領をほぼ制圧し、破竹の勢いで月山富田城に向かったが、守兵300であるにも関わらず天野隆重が守る難攻不落の険城をなかなか落とすことができなかった。隠岐為清の反乱等も重なり手をこまねいていた所へ、伊予・北九州へ出兵していた毛利家主力が戻り、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景以下、13000の大軍は石見から出雲を目指した。これを知った尼子勢は毛利勢を食い止める為、末次城に尼子勝久を残して石見路から月山富田城に行く際に通る布部山で毛利を食い止める事とした。
尼子勢は布部山の2つしかない登り口(水谷口・中山口)に山中鹿介を大将とする総勢6800の兵を布陣し、万全の体制で毛利軍を待ち構えた。戦いは当初地の利に勝る尼子勢が優勢だったが、攻め落とすのが難しいと判断した吉川元春が住民に間道を教えてもらい、別働隊を率いて裏から布部山の頂上に登りそこから尼子軍の本陣を強襲したところ尼子勢は総崩れとなり敗走した。
明応の政変
明応の政変は、室町時代の1493年に起こった足利将軍廃立事件である。
明応の政変は単なる中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる重大なターニングポイントであり、戦国時代の始期とする説が近年日本史学界では有力となっている。
1.美濃国
2.近江国
3.畿内(山城国・丹波国)
4.河内国
5.越中国射水郡放生津
地図上の印は大まかに地域を指しているので、ズームすると意味のない所をさしていることになる。大体の場所を把握するのに活かしていただきたい。
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足利義材は、足利将軍家の家督争いから起こった応仁の乱では西軍の盟主として擁立された足利義視の子で、乱が西軍劣勢で収束すると父とともに土岐成頼を頼り美濃国へ逃れていた。9代将軍の足利義尚は将軍直属の軍事力である奉公衆を率いて近江国の六角氏討伐のための出兵などを行うが、1489年に出陣中に死去する。
すると義材は義視とともに上洛し、10代将軍に推薦される。義尚の父で8代将軍であった足利義政や、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の子である細川政元などは、堀越公方である足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた清晃(足利義澄)を推すが、義政正室・義尚生母として幕政で影響力をもっていた日野富子が実妹の生んだ義材を後援し、1490年に義政が死去すると、義視の出家などを条件に義材の10代将軍就任が決定する。
だが、細川政元や伊勢貞宗・足利政知らは将軍父子と対立した。義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、この頃脅かされていた丹波国、山城国などの畿内における国一揆の脅威などに対応するため、1491年に奉公衆を掌握して六角氏討伐を継承するなど軍事的強化を図った。
1493年には畠山政長が敵対する畠山義就の子である畠山基家の討伐のため河内国出陣を要請し、細川政元は出兵に反対するが、先の応仁の乱の一因でもあった畠山氏の家督問題を解決させるために義材が出陣を決定して討伐軍を進発させた。 政元は義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則を抱き込み足利義澄を11代将軍として擁立すると、義材の廃立を宣言するクーデターを決行、政元はさらに京都を征圧する。
この報を聞いた義材の軍は分裂し、政元が派遣した討伐軍との衝突で畠山政長が敗死すると義材は投降して京都において幽閉されることとなった。 同年6月、側近らの手引きで越中国射水郡放生津に下向し、畠山政長の重臣である越中国婦負郡・射水郡分郡守護代神保長誠を頼った。義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りがこれに従った。
明応の政変は単なる中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる重大なターニングポイントであり、戦国時代の始期とする説が近年日本史学界では有力となっている。
1.美濃国
2.近江国
3.畿内(山城国・丹波国)
4.河内国
5.越中国射水郡放生津
地図上の印は大まかに地域を指しているので、ズームすると意味のない所をさしていることになる。大体の場所を把握するのに活かしていただきたい。
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足利義材は、足利将軍家の家督争いから起こった応仁の乱では西軍の盟主として擁立された足利義視の子で、乱が西軍劣勢で収束すると父とともに土岐成頼を頼り美濃国へ逃れていた。9代将軍の足利義尚は将軍直属の軍事力である奉公衆を率いて近江国の六角氏討伐のための出兵などを行うが、1489年に出陣中に死去する。
すると義材は義視とともに上洛し、10代将軍に推薦される。義尚の父で8代将軍であった足利義政や、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の子である細川政元などは、堀越公方である足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた清晃(足利義澄)を推すが、義政正室・義尚生母として幕政で影響力をもっていた日野富子が実妹の生んだ義材を後援し、1490年に義政が死去すると、義視の出家などを条件に義材の10代将軍就任が決定する。
だが、細川政元や伊勢貞宗・足利政知らは将軍父子と対立した。義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、この頃脅かされていた丹波国、山城国などの畿内における国一揆の脅威などに対応するため、1491年に奉公衆を掌握して六角氏討伐を継承するなど軍事的強化を図った。
1493年には畠山政長が敵対する畠山義就の子である畠山基家の討伐のため河内国出陣を要請し、細川政元は出兵に反対するが、先の応仁の乱の一因でもあった畠山氏の家督問題を解決させるために義材が出陣を決定して討伐軍を進発させた。 政元は義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則を抱き込み足利義澄を11代将軍として擁立すると、義材の廃立を宣言するクーデターを決行、政元はさらに京都を征圧する。
この報を聞いた義材の軍は分裂し、政元が派遣した討伐軍との衝突で畠山政長が敗死すると義材は投降して京都において幽閉されることとなった。 同年6月、側近らの手引きで越中国射水郡放生津に下向し、畠山政長の重臣である越中国婦負郡・射水郡分郡守護代神保長誠を頼った。義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りがこれに従った。
南蛮貿易
南蛮貿易とは、日本の商人とスペイン、ポルトガルの商人(南蛮人)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行われていた貿易である。
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1543年に種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。
1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れて太平洋航路を開拓し、マニラ経由で日本を訪れるようになった。
徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。
しかし、その後江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止されるなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。
南蛮貿易により、火縄銃やガレオン船の技術が日本にもたらされた。ガレオン船の技術は朱印船に生かされた。
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1543年に種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。
1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れて太平洋航路を開拓し、マニラ経由で日本を訪れるようになった。
徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。
しかし、その後江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止されるなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。
南蛮貿易により、火縄銃やガレオン船の技術が日本にもたらされた。ガレオン船の技術は朱印船に生かされた。
コシャマインの戦い
コシャマインの戦いは、1457年に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。志濃里の和人鍛冶屋と客であるアイヌ少年の間に起きた諍いをきっかけに、コシャマインを中心としてアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが、最終的には鎮圧され、松前藩形成の元となった。
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1.志苔館跡
事件の発端となり、アイヌ達が襲撃した志苔館の跡。
当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌ少年が志濃里の鍛冶屋に小刀を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌ少年を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
1456年に発生したこの殺人事件の後、東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。鵡川から余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年に武田信広によってコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、武田信広を中心にした和人側が支配権を得て、松前藩形成につながった。
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1.志苔館跡
事件の発端となり、アイヌ達が襲撃した志苔館の跡。
当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌ少年が志濃里の鍛冶屋に小刀を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌ少年を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
1456年に発生したこの殺人事件の後、東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。鵡川から余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年に武田信広によってコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、武田信広を中心にした和人側が支配権を得て、松前藩形成につながった。
応仁の乱
応仁の乱は、1467年から1477年に室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。室町幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入するきっかけとなった。応仁・文明の乱とも呼ばれる。
応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来からの説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応、維持されていたと考えられている。このため、明応の政変(1493年)以後を戦国時代とする説もある。 当サイトでは、後者の説をとり応仁の乱を室町時代のカテゴリにした。
【年号の覚え方】
人よ、むなしく応仁の乱
14 67年
足利義政の弟である義視と実子である義尚との争いと幕府の実力者である管領・細川勝元と四職・山名持豊の対立、さらに畠山・斯波両家の争いが絡み起こった。義視は一度出家していたがもとの俗人に戻り義政の後継者となることが決まっていた。しかし、その後義政の妻である日野富子に義尚が生まれて争いの原因の一つとなった。この争いの結果、公家勢力と将軍権威は失墜した。
応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように、真の実力者の身分上昇をもたらした。時代は下克上が全国に拡散されて戦国時代に向かうことになる。残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。
地図に示した所は、1467年正月18日におこった上御霊社の戦場地で、応仁の乱勃発を示す石標が建っている。
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応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来からの説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応、維持されていたと考えられている。このため、明応の政変(1493年)以後を戦国時代とする説もある。 当サイトでは、後者の説をとり応仁の乱を室町時代のカテゴリにした。
【年号の覚え方】
人よ、むなしく応仁の乱
14 67年
足利義政の弟である義視と実子である義尚との争いと幕府の実力者である管領・細川勝元と四職・山名持豊の対立、さらに畠山・斯波両家の争いが絡み起こった。義視は一度出家していたがもとの俗人に戻り義政の後継者となることが決まっていた。しかし、その後義政の妻である日野富子に義尚が生まれて争いの原因の一つとなった。この争いの結果、公家勢力と将軍権威は失墜した。
応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように、真の実力者の身分上昇をもたらした。時代は下克上が全国に拡散されて戦国時代に向かうことになる。残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。
地図に示した所は、1467年正月18日におこった上御霊社の戦場地で、応仁の乱勃発を示す石標が建っている。
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