鉄砲伝来
鉄砲伝来とは、15世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃型の鉄砲が伝わったこと、狭義には日本の種子島に伝来した事件を指す。鉄砲現物のほか、その製造技術や射撃法なども伝わった。
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1.種子島
九州の鹿児島県に属し、大隅諸島を構成する島の1つ。
種子島への鉄砲伝来は『鉄炮記』に記されている1543年9月23日の出来事で、鹿児島県種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。
やがて鉄砲鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一を左右することとなる。16世紀の日本は戦国時代で、鉄砲伝来から僅か数十年で、日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。 室町時代以降も日本の武器製造技術は高度となり、16世紀後半には鉄鋼生産量でも鉄砲生産量でも鉄砲の性能でも世界一と言えるほどになった。そして、その鉄砲の主要輸出先はオスマントルコであった。
伝来当初は猟銃として用いられていたが、すぐに戦場で用いられるようになった。当時の鉄砲はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、すぐに装填できるよう改良された。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めにおいて実戦使用された。九州や中国地方の戦国大名から、やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が1575年に甲斐武田氏との長篠の戦いをはじめとする戦で、鉄砲を有効活用したとされ、鉄砲が戦争における主力兵器として活用される軍事革命が起こる。
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1.種子島
九州の鹿児島県に属し、大隅諸島を構成する島の1つ。
種子島への鉄砲伝来は『鉄炮記』に記されている1543年9月23日の出来事で、鹿児島県種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。
やがて鉄砲鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一を左右することとなる。16世紀の日本は戦国時代で、鉄砲伝来から僅か数十年で、日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。 室町時代以降も日本の武器製造技術は高度となり、16世紀後半には鉄鋼生産量でも鉄砲生産量でも鉄砲の性能でも世界一と言えるほどになった。そして、その鉄砲の主要輸出先はオスマントルコであった。
伝来当初は猟銃として用いられていたが、すぐに戦場で用いられるようになった。当時の鉄砲はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、すぐに装填できるよう改良された。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めにおいて実戦使用された。九州や中国地方の戦国大名から、やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が1575年に甲斐武田氏との長篠の戦いをはじめとする戦で、鉄砲を有効活用したとされ、鉄砲が戦争における主力兵器として活用される軍事革命が起こる。
明応の政変
明応の政変は、室町時代の1493年に起こった足利将軍廃立事件である。
1.放生津
富山県射水市の海岸部にあった湊町。新湊市旧町部に相当する。
明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された将軍足利義材が脱出して放生津に下向したため、正光寺を将軍御所として改装し迎えた。
2.河内国
かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、大国に分類され、畿内に含まれた。その領域は現在の大阪府の東部にあたるが、設置当初は南西部(和泉国の領域)も含んでいた。河州ともいう。
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1493年には畠山政長が敵対する畠山義就の子である畠山基家の討伐のため河内国出陣を要請し、細川政元は出兵に反対するが、先の応仁の乱の一因でもあった畠山氏の家督問題を解決させるために義材が出陣を決定して討伐軍を進発させた。
政元は義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則を抱き込み足利義澄を11代将軍として擁立すると、義材の廃立を宣言するクーデターを決行、政元はさらに京都を征圧する。
この報を聞いた義材の軍は分裂し、政元が派遣した討伐軍との衝突で畠山政長が敗死すると義材は投降して京都において幽閉されることとなった。
同年6月、側近らの手引きで越中国射水郡放生津(富山県射水市)に下向し、畠山政長の重臣である越中国婦負郡・射水郡分郡守護代神保長誠を頼った。義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りがこれに従った。
明応の政変で細川政元は主導権を掌握し、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊した将軍権力は、幕府公権の二分化により弱体化した。二流に分かれた将軍家を擁した抗争が、各地で続くこととなった。以後、幕政は細川氏の権力により支えられる事となる。
明応の政変は単なる中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる重大なターニングポイントであり、戦国時代の始期とする説が近年日本史学界では有力となっている。
1.放生津
富山県射水市の海岸部にあった湊町。新湊市旧町部に相当する。
明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された将軍足利義材が脱出して放生津に下向したため、正光寺を将軍御所として改装し迎えた。
2.河内国
かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、大国に分類され、畿内に含まれた。その領域は現在の大阪府の東部にあたるが、設置当初は南西部(和泉国の領域)も含んでいた。河州ともいう。
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1493年には畠山政長が敵対する畠山義就の子である畠山基家の討伐のため河内国出陣を要請し、細川政元は出兵に反対するが、先の応仁の乱の一因でもあった畠山氏の家督問題を解決させるために義材が出陣を決定して討伐軍を進発させた。
政元は義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則を抱き込み足利義澄を11代将軍として擁立すると、義材の廃立を宣言するクーデターを決行、政元はさらに京都を征圧する。
この報を聞いた義材の軍は分裂し、政元が派遣した討伐軍との衝突で畠山政長が敗死すると義材は投降して京都において幽閉されることとなった。
同年6月、側近らの手引きで越中国射水郡放生津(富山県射水市)に下向し、畠山政長の重臣である越中国婦負郡・射水郡分郡守護代神保長誠を頼った。義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りがこれに従った。
明応の政変で細川政元は主導権を掌握し、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊した将軍権力は、幕府公権の二分化により弱体化した。二流に分かれた将軍家を擁した抗争が、各地で続くこととなった。以後、幕政は細川氏の権力により支えられる事となる。
明応の政変は単なる中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる重大なターニングポイントであり、戦国時代の始期とする説が近年日本史学界では有力となっている。
桶狭間の戦い
桶狭間の戦いは、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に行われた。2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対して、尾張の大名である織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を壊走させた。歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な合戦。
東海地方に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで、戦国時代の重要な転機となった。
合戦の行われた戦場については、一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降、「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着している。
「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。
一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは、今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『守貞漫稿』)にもあらわれる。
同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定しがたい。
桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の2つの説にまとめることができる。
「迂回攻撃説」
善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首い奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
「正面攻撃説」
善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍。折からの豪雨で視界がきかないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。
「迂回攻撃説」は江戸時代初期の作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」は現在では否定的または俗説とする見解が見られる。
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桶狭間の戦いの古戦場の史跡公園として整備された場所は2箇所存在する。ひとつは、豊明市側の「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」で、古くから義元の墓と伝えられる墓が所在する。桶狭間の戦いの合戦地として全国的に広く定着し、昭和12年(1937年)に国指定史跡となっている。
一方、名古屋市緑区の有松町桶狭間には、「桶狭間古戦場公園」という名前の公園がある。桶狭間古戦場公園は豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」のように国指定史跡や観光名所とされている訳ではない。園内には今川義元戦死地の碑、馬繋ぎの塚、首洗いの泉など桶狭間の戦いにまつわる地元の伝承地が取り込まれている。
東海地方に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで、戦国時代の重要な転機となった。
合戦の行われた戦場については、一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降、「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着している。
「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。
一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは、今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『守貞漫稿』)にもあらわれる。
同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定しがたい。
桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の2つの説にまとめることができる。
「迂回攻撃説」
善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首い奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
「正面攻撃説」
善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍。折からの豪雨で視界がきかないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。
「迂回攻撃説」は江戸時代初期の作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」は現在では否定的または俗説とする見解が見られる。
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桶狭間の戦いの古戦場の史跡公園として整備された場所は2箇所存在する。ひとつは、豊明市側の「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」で、古くから義元の墓と伝えられる墓が所在する。桶狭間の戦いの合戦地として全国的に広く定着し、昭和12年(1937年)に国指定史跡となっている。
一方、名古屋市緑区の有松町桶狭間には、「桶狭間古戦場公園」という名前の公園がある。桶狭間古戦場公園は豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」のように国指定史跡や観光名所とされている訳ではない。園内には今川義元戦死地の碑、馬繋ぎの塚、首洗いの泉など桶狭間の戦いにまつわる地元の伝承地が取り込まれている。