小田原の役
小田原の役は、1590年に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。小田原攻め、小田原征伐とも呼ばれる。また、従来は「小田原評定」という諺に代表されるように後北条氏を低く見る傾向があったが、研究が進んで新しい事実も出てきている。
拡大地図を表示
1590年春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側はゲリラ戦法を以ってこれに対抗。兵糧を焼くなど一定の戦果があったらしく、豊臣軍の兵は忽ち食糧不足に陥り略奪や狩猟などで食糧を確保していたようである。
3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。しかし、山中城と韮山城では後北条側の地形や火力を生かした頑強な抵抗に遭い、山中城では一柳直末が討ち死にするなど豊臣軍は思いもよらぬ大苦戦を強いられた。苦戦の報を聞いた秀吉は強襲の号令を発し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕。韮山城でも攻撃側の10分の1しかいない城兵に苦しめられ、戦線がこう着状態となった。
韮山城の存在が後顧の憂いになったため、秀吉はやむなく韮山城包囲の軍勢を残したまま小田原に向けて進撃した。徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。しかし、東海道の三城を難なく蹴散らし小田原城も強襲で落とす当初の構想は瓦解し、秀吉得意の包囲戦術に切り替えることとなった。秀吉は余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。また、富と権力を誇示するためのパフォーマンスを小田原やそれ以外のところで繰り広げることとなった。
一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かり、4月20日に大道寺政繁はあっさり降伏。道案内を申し出た。その後、厩橋城、箕輪城と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城、江戸城と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政・内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城、臼井城、本佐倉城と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという(5月20日付、「浅野家文書」)。
もう一方は河越城を陥落させ、岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、籠城軍が弱かったわけではなく、各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために引き抜かれたために最低限の守備兵を残した状態で籠城戦を行ったからであり、これらの城々は最初から放棄する戦略であったからと考えられている。しかし、氏邦が篭る鉢形城や湿地に囲まれた忍城や館林城を攻め倦み、進撃のペースが一気に落ちた。
6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。一方の後北条側でも外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。
そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、かねてから親しかった連歌の達人を通じ、里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。また、6月16日に松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を引き入れる手はずであったが、一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。
この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から「小田原評定」という言葉が生まれたが、これがどの時期の出来事を指すのかは不明である。
7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。
戦後、7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、主戦派であった前当主の氏政とその弟の北条氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により自害した。これとは別に、内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁に切腹を命じた。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、検視役に止められ果たせなかった。その氏規と当主氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。
一方、小田原城陥落と相前後して鉢形城は6月14日に氏邦が突如出家するに及んで開城となり、韮山城も6月24日に開城。忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られた。使者が到着するまでの間に浅野長政との間でゴタゴタがあったものの、7月16日に開城した。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡し、秀吉はその後奥州を帰服させ天下を統一した。戦後、後北条の旧領はそのまま家康に宛がわれることとなった。
拡大地図を表示
1590年春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側はゲリラ戦法を以ってこれに対抗。兵糧を焼くなど一定の戦果があったらしく、豊臣軍の兵は忽ち食糧不足に陥り略奪や狩猟などで食糧を確保していたようである。
3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。しかし、山中城と韮山城では後北条側の地形や火力を生かした頑強な抵抗に遭い、山中城では一柳直末が討ち死にするなど豊臣軍は思いもよらぬ大苦戦を強いられた。苦戦の報を聞いた秀吉は強襲の号令を発し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕。韮山城でも攻撃側の10分の1しかいない城兵に苦しめられ、戦線がこう着状態となった。
韮山城の存在が後顧の憂いになったため、秀吉はやむなく韮山城包囲の軍勢を残したまま小田原に向けて進撃した。徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。しかし、東海道の三城を難なく蹴散らし小田原城も強襲で落とす当初の構想は瓦解し、秀吉得意の包囲戦術に切り替えることとなった。秀吉は余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。また、富と権力を誇示するためのパフォーマンスを小田原やそれ以外のところで繰り広げることとなった。
一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かり、4月20日に大道寺政繁はあっさり降伏。道案内を申し出た。その後、厩橋城、箕輪城と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城、江戸城と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政・内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城、臼井城、本佐倉城と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという(5月20日付、「浅野家文書」)。
もう一方は河越城を陥落させ、岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、籠城軍が弱かったわけではなく、各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために引き抜かれたために最低限の守備兵を残した状態で籠城戦を行ったからであり、これらの城々は最初から放棄する戦略であったからと考えられている。しかし、氏邦が篭る鉢形城や湿地に囲まれた忍城や館林城を攻め倦み、進撃のペースが一気に落ちた。
6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。一方の後北条側でも外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。
そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、かねてから親しかった連歌の達人を通じ、里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。また、6月16日に松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を引き入れる手はずであったが、一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。
この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から「小田原評定」という言葉が生まれたが、これがどの時期の出来事を指すのかは不明である。
7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。
戦後、7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、主戦派であった前当主の氏政とその弟の北条氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により自害した。これとは別に、内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁に切腹を命じた。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、検視役に止められ果たせなかった。その氏規と当主氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。
一方、小田原城陥落と相前後して鉢形城は6月14日に氏邦が突如出家するに及んで開城となり、韮山城も6月24日に開城。忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られた。使者が到着するまでの間に浅野長政との間でゴタゴタがあったものの、7月16日に開城した。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡し、秀吉はその後奥州を帰服させ天下を統一した。戦後、後北条の旧領はそのまま家康に宛がわれることとなった。
豊臣秀吉の刀狩
刀狩とは、百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策のことである。特に安土桃山時代の1588年に豊臣秀吉が刀狩令を出して大規模に推進した政策を指す。一般的には百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られている。
ただし、刀狩を最初に行なったのは柴田勝家である。また、これに先立った1585年6月に秀吉が高野山の僧侶に対して武装放棄を確約させており、これを刀狩の最初とする見方もある。
豊臣秀吉が発した刀狩令は次の3か条からなる。
・百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
・取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
・百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。
後に江戸幕府が「文治政治」の導入に伴って、再び帯刀規制に乗り出す事になった。しかしこれも身分表象としての二本差し帯刀の規制による象徴的なものに留まり、農村に蓄えられた膨大な武器を消滅させるには至らなかった。ただし、内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、表向き禁止された百姓の一揆が結成され、それによる権益要求の示威活動が行われても、一揆側で真に戦闘時に威力を発揮する鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは自粛されるなど、一定の妥協が成立していた。
これらの農村の膨大な武器がほぼ完全に消滅するのは、大日本帝国が太平洋戦争においてポツダム宣言を受諾し無条件降伏した後の、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策による。1946年に銃砲等所持禁止令が施行され、民間人は狩猟用や射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これにより100万もの刀剣が没収されたという。また、それを背景に、引き続き警察が没収により徹底させた。
ただし、刀狩を最初に行なったのは柴田勝家である。また、これに先立った1585年6月に秀吉が高野山の僧侶に対して武装放棄を確約させており、これを刀狩の最初とする見方もある。
豊臣秀吉が発した刀狩令は次の3か条からなる。
・百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
・取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
・百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。
後に江戸幕府が「文治政治」の導入に伴って、再び帯刀規制に乗り出す事になった。しかしこれも身分表象としての二本差し帯刀の規制による象徴的なものに留まり、農村に蓄えられた膨大な武器を消滅させるには至らなかった。ただし、内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、表向き禁止された百姓の一揆が結成され、それによる権益要求の示威活動が行われても、一揆側で真に戦闘時に威力を発揮する鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは自粛されるなど、一定の妥協が成立していた。
これらの農村の膨大な武器がほぼ完全に消滅するのは、大日本帝国が太平洋戦争においてポツダム宣言を受諾し無条件降伏した後の、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策による。1946年に銃砲等所持禁止令が施行され、民間人は狩猟用や射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これにより100万もの刀剣が没収されたという。また、それを背景に、引き続き警察が没収により徹底させた。
本能寺の変
本能寺の変は、1582年6月21日、織田信長の重臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺の主君信長を攻め、自刃させた事件。
1.本能寺
2.本能寺跡
六角通、西洞院通、蛸薬師通、油小路通で囲まれた所を本能寺跡という。
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。
老人ホームの西手には、新しく整備された本能寺跡の石碑。
老人ホームの北東角には、本能寺の変を扱う本でよく紹介される本能寺跡の石碑がある。
powered by 地図Z
光秀は、徳川家康の接待役を5月15日より務めた。しかし17日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に羽柴秀吉から応援の要請が届いたためとも、接待に不手際が有ったためともいわれる。
26日にはいまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。
信長は29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」として京に向かった。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、信長を討つことを全軍に明らかにしたと、頼山陽の『日本外史』にはある。これについては、足軽は徳川家康を討つものと信じていた、一部の重臣しか知らなかったなど諸説ある。
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。
『信長公記』によると、本能寺跡物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった森蘭丸に火を放たせ、自刃したとされる。信長の遺骸は発見されず、これについても諸説ある。
ルイス・フロイスの『日本史』では、「明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた」という内容になっている。
1.本能寺
2.本能寺跡
六角通、西洞院通、蛸薬師通、油小路通で囲まれた所を本能寺跡という。
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。
老人ホームの西手には、新しく整備された本能寺跡の石碑。
老人ホームの北東角には、本能寺の変を扱う本でよく紹介される本能寺跡の石碑がある。
powered by 地図Z
光秀は、徳川家康の接待役を5月15日より務めた。しかし17日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に羽柴秀吉から応援の要請が届いたためとも、接待に不手際が有ったためともいわれる。
26日にはいまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。
信長は29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」として京に向かった。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、信長を討つことを全軍に明らかにしたと、頼山陽の『日本外史』にはある。これについては、足軽は徳川家康を討つものと信じていた、一部の重臣しか知らなかったなど諸説ある。
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。
『信長公記』によると、本能寺跡物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった森蘭丸に火を放たせ、自刃したとされる。信長の遺骸は発見されず、これについても諸説ある。
ルイス・フロイスの『日本史』では、「明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた」という内容になっている。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の1600年10月21日(慶長5年9月15日)に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で戦われた戦い。
日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と豊臣派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が完全に傾いたことから「天下分け目の戦い」とも呼ばれている。
豊臣秀吉死後、政権を巡って徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間で争われた。この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立した。
よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、西軍総大将は毛利輝元である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。
powered by 地図Z
1.歴史民俗資料館
関ケ原の戦いの様子を表した合戦図屏風や甲冑、大鉄砲、火縄銃、矢じりなど関ケ原の戦いの資料が展示されている。
2.決戦地
合戦の始めは、西軍7万5千余の内参戦していたのは、石田、小西、宇喜多、大谷隊の3万5千余の軍勢のみだったが西軍は東軍を圧迫し優勢であった。家康は、内応を約束していた小早川隊に催促の一斉射撃を命じる。西軍有利の陣形の合戦だったが、小早川の裏切りによって敗れた。
日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と豊臣派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が完全に傾いたことから「天下分け目の戦い」とも呼ばれている。
豊臣秀吉死後、政権を巡って徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間で争われた。この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立した。
よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、西軍総大将は毛利輝元である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。
powered by 地図Z
1.歴史民俗資料館
関ケ原の戦いの様子を表した合戦図屏風や甲冑、大鉄砲、火縄銃、矢じりなど関ケ原の戦いの資料が展示されている。
2.決戦地
合戦の始めは、西軍7万5千余の内参戦していたのは、石田、小西、宇喜多、大谷隊の3万5千余の軍勢のみだったが西軍は東軍を圧迫し優勢であった。家康は、内応を約束していた小早川隊に催促の一斉射撃を命じる。西軍有利の陣形の合戦だったが、小早川の裏切りによって敗れた。