日本史

日本史の各出来事を地図などを使って紹介

ニコライ・レザノフ

ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフはロマノフ王朝時代のロシア人の外交官である。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシア帝国によるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。また江戸時代後期の1804年にアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節として日本へ来航した。

その他、露米会社を設立したほか、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海を後援し自ら隊長として日本まで同行した。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクト・ペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。


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レザノフは1764年4月8日にサンクトペテルブルクで生まれた。14歳のころには既に5ヶ国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはペテルブルク裁判所勤務、海軍省次官秘書などを務め、1791年には官房長となる。

このころまでにレザノフは毛皮商人のグリゴリー・シェリホフと知り合った。シェリホフは「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」を設立しアラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を行っていた。レザノフは宮廷の腐敗に嫌気がさしており潜在的な活力のやり場がなかったが、この事業に興味を持ちそのパートナーとなり、グリゴリー・シェリホフの娘アンナと結婚して会社と事業の拡大を進めた。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の指導者となった。

レザノフは皇帝エカチェリーナ2世の末期と新皇帝パーヴェル1世の宮廷をうまく立ち回り、1799年に合同アメリカ会社の経営者となり、同社は1800年に国策会社露米会社に発展した。露米会社設立の勅許が下りたのはパーヴェル1世が暗殺される直前であった。露米会社は20年間にわたりアメリカ大陸北西部の北緯55度以北の海岸地帯、アラスカからカムチャツカに伸びるアリューシャン列島、およびカムチャツカから南へ伸びる千島列島の統治を許可された。小規模な交易会社や毛皮商人をこの地の毛皮交易から押し出した露米会社の勅許は、総支配人レザノフおよび会社の出資者だった宮廷の成員に多大な収入をもたらしたが、まもなく管理の失敗と食糧不足でアラスカ方面の統治は混乱し、会社は大きな損失を出した。

サンクトペテルブルク


レザノフは露米会社の食糧難打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考えて宮廷に働きかけ、日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなった。1792年に日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされたが、レザノフは正式な国交樹立のために通行許可証である信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長となり、ペテルブルクから出航し南米を回り太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。

航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫から日本語を学び辞書を作った。1804年9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋から装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。

シトカに1962年に復元されたロシアの砦の望楼レザノフは1805年4月に長崎を去りカムチャツカへ向かった。カムチャツカには彼に対して極東にとどまり露米会社の営業地である北太平洋やアラスカを視察して混乱を立て直すよう命令が届いていた。この時期、アラスカ海岸ではトリンギット族と露米会社の戦争が続き、1804年のシトカの戦いでようやく事態が収まったところであった。彼はアリューシャン列島伝いにアラスカの本拠であるノヴォアルハンゲリスクに向かい、毛皮の乱獲の防止、会社の規則に違反する社員の処刑、小学校や図書館や栄養学校の開設などを行った。

サンフランシスコ


1806年の春、飢餓に苦しむ冬が去るとレザノフは沿岸に寄航するアメリカ人船長から船を買いスペイン領カリフォルニアへ船出した。この航海には、ヌエバ・エスパーニャとの間に協定を結び、年二回交易を行って食糧難のアラスカにメキシコの食糧を備蓄する狙いもあった。途中大嵐にあったため、当初の目的であったコロンビア川河口付近のロシア領有宣言を行うことはできなかったが、サンフランシスコ港に到達し投錨することができた。

レザノフは現地のスペイン人たちからの敬意を受け、連日連夜の大歓迎の祝宴でもてなされた。しかしスペイン法によりスペイン植民地は外国勢力との交易が禁じられていることをレザノフは知らされ、カリフォルニアの官僚たちも賄賂・買収に応じず交渉は不調に終わった。この時サンフランシスコで会ったアルタ・カリフォルニア総督ホセ・ダリオ・アルゲージョの15歳の娘、コンセプシオン・アルゲージョと相思相愛となり、ロシア側聖職者の反対も押し切って婚約することになった。

スペイン政府とロシアとの条約を前向きに考えるよう現地官僚と約束し、サンフランシスコ到着から6週間後、レザノフ一行はアラスカのノヴォアルハンゲリスクへと食糧を満載して帰った。

彼はアラスカからすぐにカムチャツカへと戻った。彼は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏したがのち撤回した。しかし部下のフヴォストフが単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃する。

フヴォストフが日本の北方を襲撃している頃、レザノフはスペインとの条約を皇帝に諮るためカムチャツカから出てペテルブルクに向けてシベリアを横断中であったが、長年の航海により疲労し健康を害しており、1807年3月13日クラスノヤルスクで病死する。

フォヴォストフ事件により日露関係は緊張し、1811年にはゴローニン事件が発生する。

レザノフのカリフォルニアへの来航は、露米会社の社員や会社の奴隷であった先住民達が飢餓に苦しむことへの同情に基づくものだったが、ヌエバ・エスパーニャではその意図をめぐり混乱が起きた。彼が露米会社を代表して書いた手紙には、北米西海岸を全面的にロシアに併合し本国から即座に大量の移民を送ろうという意図が現れている。もし彼が病死しなければ北米植民地化計画は実行に移されたであろうが、彼が病死したためロシア皇帝はスペインとの条約に調印せず、ロシア領アラスカを立て直す彼の改革も挫折し、困窮するアラスカは次第に衰えアメリカへの売却へと進んでゆく。

コンセプシオン・アルゲージョはレザノフの帰りを待ったまま誰とも結婚せず尼僧となり1857年に死んだ。

明和事件

明和事件は、江戸時代中期幕府による尊王論者弾圧事件である。

甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で1758年におきた江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件である「宝暦事件」に連座した藤井右門は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩の内紛にかこつけて両名を逮捕し、1767年不敬罪として大弐を死罪に、右門を磔刑に処した。磔刑(たっけい)とは、罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰のことである。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内式部にも累を及ぼして遠島、つまり流罪に処せられた。


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甲斐国:かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東海道に位置する。現在の山梨県にあたる。甲州と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。

江戸:東京の旧称である。特に、江戸城を中心とする東京特別区中心部(東京都千代田区周辺)を指す。

小幡藩:上野国甘楽郡小幡に存在した藩。藩庁は小幡陣屋(のち小幡城 現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に営まれた。

薩英戦争

薩英戦争は1863年8月15日から8月17日にかけて起こった、生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における砲撃事件。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを理解し、イギリスは幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。


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1863年8月15日、イギリス艦隊は薩摩藩の汽船3隻を拿捕する。正午、薩摩藩が陸上砲台80門を用いて先制攻撃を開始。イギリス軍は応戦が遅れたが、14時、100門の砲を使用し、砲台と同時に鹿児島城北の市街地を砲撃。近代工場を備えた藩の集成館を破壊。薩摩藩側は汽船と全砲台のほか工場生産能力を失う。ただし死傷者は9人と少ない。

薩摩藩の砲撃により、イギリス艦隊の損害は大破1隻・中破2隻の他、旗艦艦長・副長の戦死を含む死傷者63人に及んだ。イギリス側の被害も大きい理由としては、開戦当時は暴風雨状態であったため船が安定せず、準備不足とあいまって砲撃頻度が低かった一方、イギリス艦隊が事前練習の標的近くに侵入していたため非常に薩摩藩側の命中率が高かったことが上げられる。

一方、薩摩側の物的被害が大きかった理由としては、イギリス側の大砲が新型のために命中率及び射程が日本側よりも大幅に良いために反撃を受けにくく、薩摩藩側が天候の回復にしたがって一方的に射撃を受けたことが挙げられる。このとき、鹿児島湾内沖小島付近に集成館にて製造した水中爆弾3基が仕掛けてあり英国船が通るのを待ち伏せしていたが、沖小島砲台が発砲した為近寄らず失敗した。

1863年8月17日、イギリス艦隊は桜島を砲撃後、横浜に戻るため撤退。

1863年11月15日、ジョン・ニールと薩摩藩がイギリス大使館で講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払う。

アダム・ラクスマン

アダム・ラクスマンは、ロシア帝国の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。

1789年、ペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。父の支援を受けて光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫ら3名の送還とシベリア総督の通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となり、1792年9月、オホーツク海を出発して根室国に到着した。


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幕府は、応対した松前藩から、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされたが、老中松平定信らは、ラクスマンを箱館に廻航させて漂流民の身柄を受け取ること、シベリア総督の信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示、そのための宣諭使として目付石川忠房を派遣することを決めた。

この結果、ラクスマンらは1793年6月箱館に入港して上陸し、松前に赴いて光太夫と北浜磯吉の2名[1]を日本側に引き渡した。宣諭使と交渉のすえ、ラクスマンは長崎への入港許可証[2]を交付された。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を退去したラクスマンは長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。


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帰国後は、1794年、女帝に日本に関する様々な書物や名品を献上したことを賞賛されて大尉に昇進した。しかし、1796年以降のラクスマンの消息は不明である。同年、エカチェリーナ2世が死去しているので、失脚した可能性もある。

ラクスマンは少なくとも1806年までは生きていたと思われる。なぜならば1806年、彼は『ラクスマン日本渡航日記』を完成させているからである。かれはロシアと日本の関係を切り開いた外交官といえる。

会津戦争

会津戦争とは1868年に起こった戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩、長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。

1.会津若松城(鶴ヶ城)
2.白河城(白河小峰城)


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白河口の戦い
戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城白河藩は当時国替えにより藩主不在となり幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、1868年6月10日に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀伊地知正治の指揮のもと、6月15日に白河への攻撃を開始し、6月20日に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。

二本松の戦い
8月12日に棚倉城が落城、9月2日に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府軍はじりじりと北上した。9月15日、新政府軍は二本松を攻撃。二本松城は落城し二本松藩主丹羽長国は米沢へ逃れた。このとき12歳から17歳の藩士子弟が多数犠牲となった。後世、彼らは二本松少年隊と呼ばれ、白虎隊と並ぶ悲劇として語り継がれた。

若松城下への侵攻
二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。10月6日、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して10月8日朝に会津若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。

日光口の戦い
会津地方南方の日光街道沿いでは、大鳥圭介率いる幕府歩兵隊と会津藩家老の山川大蔵とが防衛に当たっていた。6月11日と6月25日の今市攻略戦では攻略に失敗したが、その後は一進一退の戦いを続けていた。だが二本松が陥落すると母成峠の防御に伝習隊を抽出し、新政府軍が若松城下に突入するに至って、山川大蔵は戦線を放棄して若松城へ駆けつけた。山川大蔵は、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子のいでたちをすることで新政府軍の目を欺き、包囲下の若松城への入城に成功したと伝えられる。


会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛らは開城後も城外での遊撃戦を続けたが、頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は11月6日、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地へ向かった。

フェートン号事件

フェートン号事件は、1808年8月、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が東アジアの日本にまで影響を及ぼし、勃発した。


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1.長崎港
港の形から「鶴の港」とも呼ばれる。江戸時代には鎖国中にあって江戸幕府が公認した唯一の国際貿易港として栄え、明治以降は上海への航路の発地として貿易や旅客の行き来が盛んになった。現在では観光地長崎の玄関口として、また離島の多い長崎県の交通の要衝として重要な位置を占めており、港中心部の再開発も進んでいるところである。

1808年、イギリスはオランダ船拿捕を目的としてイギリス艦フェートン号を派遣し、10月4日にフェートン号は国籍を偽ってオランダ国旗を掲げて長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員2名は慣例に従い、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拿捕され、船に連行された。

それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人を派遣して薪水や食料の提供を要求した。

長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にフェートン号の焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促した。オランダ商館長ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧めたが、ここに来て長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて守備兵をわずか150名程度に減らしていたことが判明する。

翌16日、イギリス船がオランダ人1名を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送った。このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、翌17日に港外に去った。

手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった松平康英は国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに江戸幕府は鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主・鍋島斉直に100日の閉門を命じた。

フェートン号事件ののち、ズーフや長崎奉行曲渕景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化される。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は25年には異国船打払令を発令する。

池田屋事件

池田屋事件は、1864年7月8日に京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件である。池田屋騒動池田屋事変ともいわれる。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。

長州藩などの尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行、中止について協議する会合が池田屋か四国屋において行われる事を突き止め、新選組は会津藩、桑名藩などに応援を要請した。しかし、会津らの動きが遅く時刻になっても動かないため、近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始した。実際に捜索に当たったのは、近藤隊10人、土方隊24人の総数僅か34名だったといわれる。

捜索の末、池田屋で謀議中の尊攘過激派を発見した近藤隊は数名で斬り込み、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘過激派に対し、当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めた。

裏口を守っていた安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門達に浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し安藤、新田も1ヵ月後に死亡した。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが戦闘中に倒れて戦線離脱する。

一方、一階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ戦線離脱。一時は近藤、永倉の2人となるが、土方隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げる。会津、桑名藩の応援は戦闘後に到着した。

池田屋騒動之址の位置には石碑があります。
池田屋があった場所には現在パチンコ店があるそうです。


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