日本史

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応仁の乱

応仁の乱は、1467年から1477年に室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。室町幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入するきっかけとなった。応仁・文明の乱とも呼ばれる。

応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来からの説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応、維持されていたと考えられている。このため、明応の政変(1493年)以後を戦国時代とする説もある。 当サイトでは、後者の説をとり応仁の乱を室町時代のカテゴリにした。


【年号の覚え方】

人よ、むなしく応仁の乱
14 67年


足利義政の弟である義視と実子である義尚との争いと幕府の実力者である管領・細川勝元と四職・山名持豊の対立、さらに畠山・斯波両家の争いが絡み起こった。義視は一度出家していたがもとの俗人に戻り義政の後継者となることが決まっていた。しかし、その後義政の妻である日野富子に義尚が生まれて争いの原因の一つとなった。この争いの結果、公家勢力と将軍権威は失墜した。

応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように、真の実力者の身分上昇をもたらした。時代は下克上が全国に拡散されて戦国時代に向かうことになる。残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。

地図に示した所は、1467年正月18日におこった上御霊社の戦場地で、応仁の乱勃発を示す石標が建っている。


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