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<title>日本史</title>
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<description>日本史の各出来事を地図などを使って紹介</description>
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<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Mon, 28 Apr 2008 16:09:44 +0900</lastBuildDate>

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<title>関東大震災</title>
<description><![CDATA[<strong>関東大震災</strong>は、1923年9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km（北緯35.1度、東経139.5度）を震源として発生した海溝型の大地震（関東地震）による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした。
<br /><br />
<div align="center">
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;s=AARTsJqzARj-Z8VnW5pkPMLMmZbqrJcYpw&amp;ll=35.523285,139.666443&amp;spn=0.782382,1.373291&amp;z=9&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&amp;t=h&amp;ll=35.523285,139.666443&amp;spn=0.782382,1.373291&amp;z=9&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
</div><br /><br />
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日午前10時頃とされている。
<br /><br />
建造物の被害としては、凌雲閣（浅草十二階）が大破し、建設中だった丸の内の内外ビルディングが損壊。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫も類焼し、多くの貴重な書籍群が失われた。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm1.static.flickr.com/63/230971839_f2cc5c7580.jpg?v=0" alt="現在の東京"  style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
死者・行方不明者：10万5385人 <br />
負傷者：10万3733人 <br />
避難人数：190万人以上 <br />
住家全壊：12万8266戸 <br />
住家半壊：12万6233戸 <br />
住家焼失：44万7128戸（全半壊後の焼失を含む） <br />
その他：868戸
<br /><br />
なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[1]。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
190万人が被災、10万5千人余が死亡（あるいは行方不明）した。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村（現、小田原市の一部）の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、更に村も山崩れにより壊滅したという。
<br /><br />
文化人で被害に遭ったのは英文学者・評論家の厨川白村で、鎌倉で津浪に襲われて死んだ。また、避暑に郊外へ来ていた皇族からも3名の死者が出ており、小田原では閑院宮御別邸が倒壊し寛子女王(17歳)が下敷きとなって死去、また藤沢で東久邇宮家の師正王（6歳）が避暑先の別荘の倒壊で死去、鎌倉では山階宮武彦王妃の佐紀子女王(20歳)が別邸の倒壊により死去した。
なお、理科年表では、震災後から2005年度版まで、死者数や倒壊件数などの被害を、現在推定される数値よりかなり多い値で掲載していた。これは震災から2年後に総められた「震災予防調査会報告」に基づいた数値であったが、近年になり武村雅之らの調べによって、重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、2006年度版から修正されることになった。
<br /><br />
1918年に第一次世界大戦が終わり、荒廃したヨーロッパに変わって日本の工業製品輸出が伸びた戦争特需による好景気も、ヨーロッパ経済が急速に回復すると過ぎ去っており、景気に陰りが見えてきた日本経済に甚大な打撃を与えた。
<br /><br />
震災は大きな損害を与えたが、震災後は大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京の街の大改革を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。また震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化して後の昭和恐慌の遠因となる。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm1.static.flickr.com/174/416057449_ca77c95fbd.jpg?v=0" alt="現在の横浜"  style="border: 1px solid #ddd"></div>
]]></description>
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<pubDate>Mon, 28 Apr 2008 16:09:44 +0900</pubDate>
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<title>長野オリンピック</title>
<description><![CDATA[長野オリンピックは、1998年2月7日から2月22日まで日本の長野市とその周辺を会場にして開催された20世紀最後の冬季オリンピック。冬のオリンピック開催地に限定すれば最も南で開催された都市として話題を呼んだ。日本ジャンプ陣（日の丸飛行隊）が活躍した。閉会式の司会は萩本欽一が担当した。

1991年にイギリス・バーミンガムで行われたIOC総会でアオスタ、ハカ、エステルスンド、ソルトレイクシティを破り開催地に選ばれた。


<br /><br />
<div align="center">
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.000448f7c2af1b3ddce3e&amp;s=AARTsJo0pOiPtf-kyihLJEBytAKLjVqJGg&amp;ll=36.616079,138.164063&amp;spn=0.385798,0.686646&amp;z=10&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.000448f7c2af1b3ddce3e&amp;ll=36.616079,138.164063&amp;spn=0.385798,0.686646&amp;z=10&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
</div><br /><br />
長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…」の歌声を披露した。
<br /><br />

<div align="center">
<img src="http://farm1.static.flickr.com/97/239294651_dd79ecc3b3.jpg?v=1157899840" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
屋外競技は、全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が大幅に変更される事態にもなった。
<br /><br />
・アルペンスキー<br />
男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き、競技日程が大幅に変更され、大会10日目の16日には、男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施されるという強行日程もとられた。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした。スタート地点問題でコースが一部変更になったことに伴いできたポイントである。この場所で、このシーズンのワールドカップ総合1位を独走していたヘルマン・マイヤーが大転倒をし、アルペンスキーを見慣れない日本の観衆に大きな衝撃を与えたが、マイヤーはその3日後に行われたスーパー大回転で優勝、さらに大回転でも優勝し、この大会の象徴的選手の1人となった。
<br /><br />
・ノルディックスキー<br />
ジャンプ競技は、日本勢がシーズン当初から好調で、大会前から札幌オリンピックの日の丸飛行隊の再現が大きく期待された。結果、金2個、銀1個、銅1個と大活躍した。クロスカントリー男子15kmクラシカルでは、ケニアから出場し、最下位ながらも見事完走を果たしたフィリップ・ボイトを、優勝したノルウェーのビョルン・ダーリがゴール地点で出迎えて健闘をたたえる一幕があった。
<br /><br />
・スノーボード<br />
スノーボードは、大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、ロス・レバグリアティが最初、オリンピックチャンピオンになった。レバグリアティは競技終了後、ドーピング検査でマリファナの陽性反応が出たために、一旦はメダル剥奪が決定されたが、CASの裁定により処分は取り消された。
<br /><br />
・スピードスケート<br />
プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって、世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回り、大会開幕を告げるレースとして十分な内容の展開となった。

<br /><br />
・フィギュアスケート<br />
この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーがナガノのヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。
<br /><br />

・アイスホッケー<br />
この大会からプロ選手の参加が認められ、北米アイスホッケーリーグ（NHL）所属の選手を数多く擁した6カ国がシードされた。その中でもアメリカとカナダが大きく注目され、両国の優勝争いとなると見られていたが、いずれも決勝に進めないという大波乱の展開となった。金メダルを獲得したのが、ゴールキーパーのドミニク・ハシェクを中心としたNHLのスター選手中心ではあったが、選手の半数は国内リーグや欧州諸国リーグ所属の選手だったチェコであった。NHL選手は1次リーグ参加国でもNHLの日程もあり、ほとんど2次リーグから出場した。
<br /><br />

・フリースタイルスキー<br />
モーグル女子種目では、里谷多英が優勝、金メダルを獲得した。これは日本女子選手が冬のオリンピックで初めて獲得した金メダルとなった。
<br /><br />
<div align="center">
エムウェーブ。長野オリンピックのスピードスケートの会場。<br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/47/139678326_e96a53c1c4.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
<link>http://xn--mprp13bb2a.maply.info/2008/03/post_59.html</link>
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<pubDate>Sat, 22 Mar 2008 04:44:42 +0900</pubDate>
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<title>宇佐八幡宮神託事件</title>
<description><![CDATA[<strong>宇佐八幡宮神託事件</strong>とは奈良時代の769年、宇佐八幡宮（大分県宇佐市）より称徳天皇（孝謙天皇）に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされる事件である。<strong>道鏡事件</strong>とも呼ばれている。同年10月1日（11月7日）に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
<br /><br />
宇佐神宮（うさじんぐう）は、大分県宇佐市にある神社である。全国四万四千社と称する八幡宮の総本社である。式内社、旧官幣大社。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。
<br /><br /><div align="center">
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004481a7fa10129fc3fb&amp;s=AARTsJr2OrlzitlFoq3bwrsZ4zeOAE0zFg&amp;ll=33.526478,131.374683&amp;spn=0.012521,0.021458&amp;z=15&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004481a7fa10129fc3fb&amp;ll=33.526478,131.374683&amp;spn=0.012521,0.021458&amp;z=15&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
</div>
<br /><br />
弓削道鏡は法相宗の僧で、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世。天平宝字8年（764年）、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こす（藤原仲麻呂の乱）と上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ばした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが再度天皇に復位する（重祚）ことを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年（765年）には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年（766年）には法王となる。
<br /><br />
だが、反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、一度は出家して尼になった筈の孝謙上皇の復位やましてや道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。おまけに称徳天皇は独身であったために子供はおらず、皇太子は立てられなかった。このため、称徳天皇後の皇位は誰が継ぐのかが貴族達の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝（淳仁天皇）の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上のタブーとなっていった。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm3.static.flickr.com/2321/2074864303_78fe64c434.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
769年5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、自ら皇位に就くことを望む（続紀没伝）。称徳天皇は宇佐八幡から法均の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
<br /><br />
ただし、清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣の辛嶋勝与曽女（からしまのすぐりよそめ）に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
<br /><br />
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷、さらに「別部穢麻呂」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売」と改名させられて処罰された。
<br /><br />
その後、この年の10月1日に詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって称徳天皇自身が決める事を改めて表明する。
<br /><br />
770年に女帝が死去すると、皇太子は白壁王と決定され、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷（配流）された。なお、この時（宝亀元年8月21日）の白壁王の令旨に「道鏡が皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていない。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm1.static.flickr.com/55/111351263_2a3191bc7b.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
この事件については歴史書『続日本紀』に詳細が書かれ、道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきたが、既に江戸時代に本居宣長によって一連の神話的な事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれているとする説も存在する。
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<link>http://xn--mprp13bb2a.maply.info/2008/03/post_58.html</link>
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<pubDate>Tue, 11 Mar 2008 04:42:05 +0900</pubDate>
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<title>三内丸山遺跡</title>
<description><![CDATA[<strong>三内丸山遺跡</strong>は青森県青森市で発見された縄文時代の集落跡。所在地は青森市大字三内字丸山。国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。
<br /><br />
<div align="center">

<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004471bcdc4cac60a873&amp;s=AARTsJqsfZd31b3g3OdfAjjgzaEB9EJnUg&amp;ll=40.812023,140.695596&amp;spn=0.011368,0.021458&amp;z=15&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=106116396797395546097.0004471bcdc4cac60a873&amp;ll=40.812023,140.695596&amp;spn=0.011368,0.021458&amp;z=15&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>

</div><br /><br />
この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。それらは縄文時代の文化が従来考えられているよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
<br /><br />
近年、三内丸山遺跡は「縄文時遊館」などの建設などで景観が整った。しかしその一方、「遺跡らしさ」が失われたという意見もある。 そして、2010年開業の東北新幹線・新青森駅開業に伴う「三内丸山高架橋」の完成により、車内から遺跡を見渡せるようになると予想される。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1116/1193863142_80bc2b31d2.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"><br /><br />
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1349/1192904269_2caa321601.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
<link>http://xn--mprp13bb2a.maply.info/2008/02/post_57.html</link>
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<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 12:50:04 +0900</pubDate>
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<item>
<title>愛知万博（愛・地球博）</title>
<description><![CDATA[2005年日本国際博覧会は、2005年3月25日から9月25日まで、愛知県愛知郡長久手町・豊田市および同県瀬戸市の2会場で開催された博覧会で、21世紀最初の国際博覧会(EXPO)であり、国内では大阪万博以来の2回目の総合的な博覧会である。略称は、開催地の名から「愛知万博」、愛称は「愛・地球博」。1997年にモナコで開かれた博覧会国際事務局（BIE）総会でカナダのカルガリーを破り、開催地に選ばれた。
<br /><br />
<div align="center">
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=113984595681420237076.0004464624ffe4e54890a&amp;s=AARTsJoS0IfOWJySKc9D5aKL52jlZ6bSvQ&amp;ll=35.187909,137.111349&amp;spn=0.785644,1.373291&amp;z=9&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;msid=113984595681420237076.0004464624ffe4e54890a&amp;ll=35.187909,137.111349&amp;spn=0.785644,1.373291&amp;z=9&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>

</div><br /><br />
メイン会場は長久手町と豊田市を跨ぐ愛知青少年公園跡地（現在：愛・地球博記念公園）の長久手会場。博覧会協会の会長がトヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎であった事や、博覧会の企画、宣伝（プロモーション）、運営、入場券の発売などについて、地元の巨大企業であるトヨタグループの全面的な支援があったため開幕前は「トヨタ博」「トヨタ万博」ともささやかれた。また、リピーターが多かった事も特徴である。なお、入場の際に必要であった入場券には万博で初めて極薄のICチップが入ったものが採用されたりと、初の試みも多い。会場内への弁当持ち込みを禁止し来場者から苦情が出たことでも有名。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm1.static.flickr.com/31/55132807_cc7eca5215.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
テーマ：「自然の叡智 Nature's Wisdom」<br />
公式テーマ曲：I'll be your love（公式イメージソング、作詞・作曲:YOSHIKI、歌:DAHLIA）<br />
キャラクター：モリゾーとキッコロ
<br /><br />
公式キャラクターとしてモリゾーとキッコロ（モリゾー・キッコロ）が制定されている。ともに瀬戸市の海上の森に住む「森の精」という設定である。また、会場内やNHKで放映されたアニメやテレビ番組、中部電力のCMなど一部に限られるが、声もつけられている。モリコロ（公式）、モリキなどという略称がある。
<br /><br />
<div align="center">
<img src="http://farm1.static.flickr.com/33/48974232_5432832715.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"><br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/8/10661399_3cb84127a7.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
<link>http://xn--mprp13bb2a.maply.info/2008/02/post_56.html</link>
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<pubDate>Sat, 16 Feb 2008 21:51:56 +0900</pubDate>
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<item>
<title>張作霖爆殺事件</title>
<description><![CDATA[<strong>張作霖爆殺事件</strong>は、1928年6月4日に起きた関東軍による奉天軍閥の長張作霖の暗殺事件。奉天事件ともいわれる。当時は「満州某重大事件」と呼ばれ事件の真相は隠されていた。中国では事件現場の地名を採って「皇姑屯事件」とも言う。
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瀋陽<br />
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</div><br /><br />
1928年6月4日、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満州へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天（瀋陽）近郊、皇姑屯の京奉線と満鉄線の交差地点付近を通り掛かろうとした時、線路際に仕掛けられていた黄色火薬が爆破され、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後奉天市内の病院で死亡、また警備、側近ら17名が死亡した。
<br /><br />
関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺し、それを口実に関東軍が満州全土を軍事占領しようという謀略を、河本大作大佐が中心になり計画。河本からの指示に基づき、6月4日早朝、爆薬の準備は、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉の指揮する工兵隊が行った。実際の爆破の指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。2人は張作霖が乗っていると思われる列車の前から8両目付近を狙って、付近の小屋から爆薬に点火した。
<br /><br />
河本らは、予め用意しておいた中国人労働者を殺害し、現場近くにその中国人2人の遺体を放置して、「犯行は蒋介石軍の便衣隊（ゲリラ）によるものである」と発表。この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていた。
<br /><br />
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張作霖 <br />
<img src="http://farm2.static.flickr.com/1026/527292575_2f4b420390.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>
<br /><br />
爆破事件の直接首謀者は、関東軍参謀 河本大作大佐（計画立案）、奉天独立守備隊 東宮鉄男大尉（直接担当）、朝鮮軍龍山の亀山工兵隊 桐原貞寿工兵中尉（爆弾設置工事等）。
<br /><br />
謀略の真相は日本政府にも告げられなかったが、事件当初から、犯行は「日本軍の仕業」であるとの説が広く流布していた。驚いた日本政府は公表せず「満州某重大事件」と呼んだ。当時の日本政府は中国での紛争拡大を迎える政策を採っていた為、この事件の隠蔽に全力を上げ、関東軍の暴走を抑えにかかった。
<br /><br />
現場調査を行った民政党代議士松村謙三なども、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを中国側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している（『三代回顧録』。その後、事件に関わった大陸浪人工藤鉄三郎が、小川平吉鉄道大臣に対し、犯人を河本大佐らに特定する「爆破事件の真相」なる書簡を持ち込み、日本側「特別調査委員会」でも独自に調査を行った結果、現場で発見された「中国人2人」の死体は実は日本側の工作であったことが判明した（戦前期「外務省記録」）。峯憲兵司令官も朝鮮にて桐原中尉を尋問、事件の主犯は河本大佐ら日本側軍人であるとの確証を得、その旨を田中義一首相に報告した。
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1928年皇姑屯事件 <br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/115/270164768_73ffd75ca1.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd"></div>]]></description>
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<pubDate>Mon, 11 Feb 2008 21:07:52 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>虎ノ門事件</title>
<description><![CDATA[<strong>虎ノ門事件</strong>は1923年12月27日に発生した大逆事件。難波大助が虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王（後の昭和天皇）を狙撃した事件である。
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<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=0&amp;msid=113984595681420237076.00044551ac7bb4e6b099c&amp;s=AARTsJpThKBr6x6UoK54NfFJA3tFQh74jw&amp;ll=35.670511,139.749656&amp;spn=0.006101,0.010729&amp;z=16&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=0&amp;msid=113984595681420237076.00044551ac7bb4e6b099c&amp;ll=35.670511,139.749656&amp;spn=0.006101,0.010729&amp;z=16&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席する為、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外において群衆の中にいた青年・難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。事件後、皇太子は側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされる。
<br /><br />
その直後、難波は周囲の群衆によって袋叩きにされ、難波の身柄を確保しようとする巡査は身をもって難波に対する殴打を防がなければならなかった。難波は後に大逆罪で死刑判決を受けている。
<br /><br />
皇太子が狙撃されるという事件は日本中に大きな衝撃を与え、結果的に日本における皇室崇敬の強さを示す形となった。
<br /><br />
当時の内閣総理大臣山本権兵衛は摂政である皇太子に即刻辞表を提出した。それを受けた皇太子は12月29日に山本を慰留したが、山本の決意は変わらず総辞職は認められた。 また、当日の警護責任を取り、警視総監湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。
<br /><br />
難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の2割減俸、途中難波が立ち寄ったとされる京都府の府知事は譴責処分となった。また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した。
<br /><br />
庚申倶楽部に所属していた衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるや直ちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死自殺した。長兄は勤めていた鉱業会社を退職した。難波の処刑後、皇太子は「家族の更生に配慮せよ」と側近に語った。
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<img src="http://farm1.static.flickr.com/145/359138193_45458095a7.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
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虎ノ門は、東京都港区にある地名。現在の住居表示では一丁目から五丁目まである。
<br /><br />
「虎ノ門」とは江戸城の南端（現在の虎ノ門交差点附近）にあった門の名前であり、門が撤去された後もその近隣地域の俗称として使われ続け、交差点名や都電・地下鉄銀座線の駅名となった。虎ノ門の名が地名に初めて採用されたのは1949年になってからである。
<br /><br />
現在の虎ノ門は、昭和52年（1977年）の住居表示実施により芝西久保地区・芝神谷町などを中心に新しく成立した町である。町名を決定する際に、港区は西久保や神谷町とせず、戦前から交差点名・地下鉄の駅名として知られていた虎ノ門の名を採用した。
<br /><br />
大正12年（1923年）12月27日、虎ノ門交差点附近において虎ノ門事件が発生する。 

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<pubDate>Mon, 04 Feb 2008 18:11:55 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>観応の擾乱</title>
<description><![CDATA[<strong>観応の擾乱</strong>は、南北朝時代の1350年から1352年の観応年間に頂点に達した室町幕府内の権力闘争。この騒乱に付随して南朝側による南北朝の統一である<strong>正平一統</strong>が一時的に生じた。
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<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=0&amp;msid=113984595681420237076.000443ee94cc5e2b964ef&amp;s=AARTsJqlU3-jc_n485VORSKMHl6S57SO9Q&amp;ll=34.352507,135.697632&amp;spn=6.34803,10.986328&amp;z=6&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=0&amp;msid=113984595681420237076.000443ee94cc5e2b964ef&amp;ll=34.352507,135.697632&amp;spn=6.34803,10.986328&amp;z=6&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
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北朝を擁立し、京都で成立した初期の足利幕府においては統治機構が未整備で、足利家の家政機関を利用しての統治が行われていた。将軍の足利尊氏は、鎌倉幕府の討幕や、建武の新政からの離反などにおいて尊氏を積極的に補佐した実弟の足利直義に政務を任せており、訴訟関係をはじめとする幕政は直義が司っていた。尊氏は足利家当主としての地位や軍事的指揮権は保持し、政所や侍所などの家政機関は管轄下に置いていた。この政治権力の分立状態は「両将軍」と評された。
<br /><br />
1347年に入ると、南朝が京都奪還の動きを見せる。足利直義は尊氏の意向を受けて細川顕氏らを派遣してこれを討とうとするも失敗する。一方、高師直は1348年の四條畷の戦いにおいて楠木正行ら南朝方を撃破し、更に勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、南朝を賀名生（奈良県五條市）へ逃げ込ませた。この結果、幕府内における直義の発言力の低下と師直の台頭が生じ、両派の対立に一層の拍車がかかった。
<br /><br />
1349年6月、上杉重能や畠山直宗、禅僧の妙吉らは直義に進言し、直義に将軍尊氏に対して高師直を讒言させる。古典「太平記」によれば直義派による師直暗殺騒動も存在したとされる。6月、師直は直義の要請で執事を解任される。直義は北朝の光厳上皇に師直追討の院宣を要請して師直を討とうとするが、8月12日、師直は河内から上洛した高師泰とともに手兵を集め、直義に対して武力による先制攻撃を行う。
<br /><br />
1350年、北朝は元号を「観応」に改める。10月、尊氏は九州で勢力を拡大する直冬追討のために出陣すると、京都では直義が都を出奔する。尊氏は進軍を続けるが、直義は畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏をはじめ、山名時氏、斯波高経らを味方に付け、関東では12月に上杉憲顕が高一族の高師冬を駆逐する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わる。観応の擾乱のはじまりはこの時点に求められる。11月には直義は高兄弟の追討のために諸国の兵を募る。光厳上皇による直義追討令が出ると、12月には直義は南朝に降る。
<br /><br />
1351年1月、直義軍は義詮を京都から追い、北朝を確保する。2月、尊氏は播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで直義に敗れ、師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦する。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/234/444934082_48576e6419.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
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幕府内部では高一族の滅亡後も直義派と反直義派との対立構造は存在した。佐々木道誉や赤松則祐らが南朝と通じて幕府に反すると、尊氏は近江へ佐々木、尊氏の子の義詮は赤松を討伐のために播磨へそれぞれ出兵する。だが、尊氏・義詮らと道誉らは密約があり京都への挟撃を試みたともいわれ、直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。
<br /><br />
一方朝廷では、尊氏が南朝に降伏した事により北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の観応2年から南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ。南朝の勅使が入京して具体的な和睦案が協議された。南朝側は、北朝の意向により天台座主や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還した事の取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。正平一統が成立し、南朝の後村上天皇が帰京する噂が立つと、各地で南朝方の活動が活発化し、本拠を賀名生から河内国東条（河南町）、摂津国住吉（大阪市住吉区）まで移転する。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/184/443491133_95aa03e982.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
この乱により、足利尊氏・直義に分割されていた将軍の権力は尊氏のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化されるが、高師直によって吉野を陥落させられ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝に、直義・尊氏が交互に降るなど息を吹き返し延命したため、南北朝の動乱が長引いた。]]></description>
<link>http://xn--mprp13bb2a.maply.info/2008/01/post_53.html</link>
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<pubDate>Fri, 18 Jan 2008 02:08:16 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>四條畷の戦い</title>
<description><![CDATA[四條畷の戦い（しじょうなわてのたたかい）は、南北朝時代の1348年1月5日、河内国北條（現在の大阪府四條畷市・大東市）において、南朝方の楠木正行率いる約3千騎と、足利尊氏の腹心である高師直率いる6万から8万の軍勢が戦った合戦である。
<br /><br />
また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条（縄手）付近で戦いがあったという説もある。
<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.0004430fc16a90e2ee5c9&amp;s=AARTsJrHFurloxQDeTrEa4zy-g1Lb9cB8w&amp;ll=34.721721,135.651798&amp;spn=0.049383,0.085831&amp;z=13&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.0004430fc16a90e2ee5c9&amp;ll=34.721721,135.651798&amp;spn=0.049383,0.085831&amp;z=13&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>
<br /><br />
1336年、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉、天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。1347年9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。
<br /><br />
足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。
<br /><br />
楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野（奈良県吉野郡吉野町）に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生（同県五條市）に逃れた。戦後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぐ。
<br /><br />
「太平記」では楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれているが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようである。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/89/241328409_66238c0248.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
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四條畷神社は大阪府四條畷市にある神社である。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神とし、以下の一族の将士24人を配祀している。

]]></description>
<link>http://xn--mprp13bb2a.maply.info/2008/01/post_52.html</link>
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<pubDate>Mon, 07 Jan 2008 00:45:16 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小田原の役</title>
<description><![CDATA[小田原の役は、1590年に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。小田原攻め、小田原征伐とも呼ばれる。また、従来は「小田原評定」という諺に代表されるように後北条氏を低く見る傾向があったが、研究が進んで新しい事実も出てきている。
<br /><br />
<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000442933a98c2ace8fa8&amp;s=AARTsJpiSqd2P6z_KlJH2GL9T_F0dR4xfw&amp;ll=35.251157,139.15339&amp;spn=0.006133,0.010729&amp;z=16&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000442933a98c2ace8fa8&amp;ll=35.251157,139.15339&amp;spn=0.006133,0.010729&amp;z=16&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>

<br /><br />
1590年春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側はゲリラ戦法を以ってこれに対抗。兵糧を焼くなど一定の戦果があったらしく、豊臣軍の兵は忽ち食糧不足に陥り略奪や狩猟などで食糧を確保していたようである。
<br /><br />
3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次･徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。しかし、山中城と韮山城では後北条側の地形や火力を生かした頑強な抵抗に遭い、山中城では一柳直末が討ち死にするなど豊臣軍は思いもよらぬ大苦戦を強いられた。苦戦の報を聞いた秀吉は強襲の号令を発し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕。韮山城でも攻撃側の10分の1しかいない城兵に苦しめられ、戦線がこう着状態となった。
<br /><br />
韮山城の存在が後顧の憂いになったため、秀吉はやむなく韮山城包囲の軍勢を残したまま小田原に向けて進撃した。徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。しかし、東海道の三城を難なく蹴散らし小田原城も強襲で落とす当初の構想は瓦解し、秀吉得意の包囲戦術に切り替えることとなった。秀吉は余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。また、富と権力を誇示するためのパフォーマンスを小田原やそれ以外のところで繰り広げることとなった。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/181/403731104_7a1fe29d98.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かり、4月20日に大道寺政繁はあっさり降伏。道案内を申し出た。その後、厩橋城、箕輪城と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城、江戸城と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政・内藤家長（徳川家臣）らによる下総方面軍は小金城、臼井城、本佐倉城と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという（5月20日付、「浅野家文書」）。
<br /><br />
もう一方は河越城を陥落させ、岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、籠城軍が弱かったわけではなく、各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために引き抜かれたために最低限の守備兵を残した状態で籠城戦を行ったからであり、これらの城々は最初から放棄する戦略であったからと考えられている。しかし、氏邦が篭る鉢形城や湿地に囲まれた忍城や館林城を攻め倦み、進撃のペースが一気に落ちた。

<br /><br /><br />
6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった（それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという）。さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。一方の後北条側でも外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。
<br /><br />
そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、かねてから親しかった連歌の達人を通じ、里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。また、6月16日に松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を引き入れる手はずであったが、一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。
<br /><br />
この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から「小田原評定」という言葉が生まれたが、これがどの時期の出来事を指すのかは不明である。
<br /><br />
7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。
<br /><br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/192/449304733_9bcd1d3a31.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
戦後、7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、主戦派であった前当主の氏政とその弟の北条氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により自害した。これとは別に、内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁に切腹を命じた。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、検視役に止められ果たせなかった。その氏規と当主氏直は家康と昵懇の仲（氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知）が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。
<br /><br />
一方、小田原城陥落と相前後して鉢形城は6月14日に氏邦が突如出家するに及んで開城となり、韮山城も6月24日に開城。忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られた。使者が到着するまでの間に浅野長政との間でゴタゴタがあったものの、7月16日に開城した。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡し、秀吉はその後奥州を帰服させ天下を統一した。戦後、後北条の旧領はそのまま家康に宛がわれることとなった。

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<pubDate>Mon, 31 Dec 2007 20:13:44 +0900</pubDate>
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<title>墨俣川の戦い</title>
<description><![CDATA[<strong>墨俣川の戦い</strong>は、1181年4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川（今の長良川）において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。
<br /><br />
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000441ce89a1c2c46e361&amp;s=AARTsJo3c1x1PVecje2VieJSByT-bLLN4g&amp;ll=35.176053,136.94458&amp;spn=0.785753,1.167297&amp;z=9&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000441ce89a1c2c46e361&amp;ll=35.176053,136.94458&amp;spn=0.785753,1.167297&amp;z=9&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
平氏政権は、前年1180年10月の富士川の戦いで源頼朝の関東政権軍に敗れたが、再度、関東政権軍を追討するため、1181年4月、平重衡を将とする軍を東国へ派遣した。それに対して、源行家の軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。行家は、関東政権とも距離を置いた独自の勢力となることを企図しており、いわば関東政権へ恩を売るために平氏軍を待ち受ける役割を負ったとされている。両軍は、墨俣川を挟んで対峙したが、行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河した。しかし、平氏軍は濡れている兵士が敵であることに気付き、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた源義円（頼朝の異母弟）、同重光（尾張源氏）、同頼元、同頼康（ともに大和源氏）といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男行頼が敵軍の捕虜となっている。行家はその後、三河の矢作川まで撤退したが、平氏軍はさらに追撃した。
<br /><br />
墨俣城<br />
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<pubDate>Sat, 22 Dec 2007 01:04:50 +0900</pubDate>
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<item>
<title>二月騒動</title>
<description><![CDATA[<strong>二月騒動</strong>は、鎌倉時代の1272年2月に起こった事件。
<br /><br />
1266年にもたらされた蒙古国書に対する返書や、異国警固を巡り紛糾する最中に起こった事件で、得宗家を中心に鎌倉幕府を主導する北条氏の内紛。幕府に対して謀反を企てていたとされる六波羅探題南方の北条時輔、北条一門の名越氏らが執権北条時宗の命により討伐された事件で、2月11日に鎌倉で名越時章・教時兄弟、同月15日には京都で時輔がそれぞれ誅殺された。
<br /><br />
この事件の結果、得宗家への反抗勢力は無くなったが、事件処理に当たった外戚の安達泰盛の勢力が肥大化し、御内人の平頼綱らとの対立が深まったとも指摘されている。
<br /><br />

<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.00044155479813b0b71be&amp;s=AARTsJqDxLXsPdhwRbizQooEwQRHLf7ZsQ&amp;ll=35.119909,137.131348&amp;spn=6.288788,9.338379&amp;z=6&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.00044155479813b0b71be&amp;ll=35.119909,137.131348&amp;spn=6.288788,9.338379&amp;z=6&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
六波羅探題南方の北条時輔は執権時宗の庶兄で、1264年に時宗が連署に就任すると同時に、京都の朝廷を監視する幕府の出仕機関である六波羅探題南方として赴任した。南方の上位である北方は、先々代執権北条長時の弟で得宗支持の北条時茂であったが、1270年に死去、後任が赴任しない状態となっていた。
<br /><br />
時輔は反鎌倉派と連帯して六波羅を主導していたとも言われ、蒙古国書への返書を巡り朝廷の動向が重要視されるようになると鎌倉は京都を警戒するようになっていたとも考えられており、1271年12月に長時の子北条義宗が北方として赴任し、六波羅評定衆の安達頼景が所領を没収されるなど、反鎌倉派の動きを封殺する措置が行われている。また、1272年2月には後嵯峨上皇死去に際して後嵯峨の皇子である前将軍の宗尊親王が出家している。これは、宗尊親王が反鎌倉勢力に擁立されることを警戒した措置であるとする指摘もある。
<br /><br />
名越氏は、5代執権北条時頼時代に名越光時が将軍頼経と結び、弟の時章、教時らと共に謀叛を企てて処罰されており（宮騒動）、時章の子である公時もこれに同調したが、まもなく露見した。光時はかろうじて助命されて伊豆へ流され、時章、教時は責められずに終わった。評定衆の教時は将軍宗尊親王の側近でもあり、親王が追放された際には警戒されていたと言われる。
<br /><br />
残されている御教書から、追討は幕命によるもので、幕府執権北条時宗、前執権で連署北条政村らが主導した事が分かっている。1272年2月11日、鎌倉では名越時章（入道見西）、教時の両名が誅殺され、公家の中御門実隆らが処罰された。この事件においては時章は無実で時章追討は誤殺であったと言われ、事件後、得宗被官の追手5名が処刑されている。また、教時追討に対する賞罰は行われていない。京都へは同年2月15日に早馬で幕命が伝えられ、時輔は北条義宗に誅殺される（逐電説も）。
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<pubDate>Sun, 16 Dec 2007 00:53:02 +0900</pubDate>
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<item>
<title>ニコライ・レザノフ</title>
<description><![CDATA[<strong>ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ</strong>はロマノフ王朝時代のロシア人の外交官である。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシア帝国によるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。また江戸時代後期の1804年にアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節として日本へ来航した。
<br /><br />
その他、露米会社を設立したほか、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海を後援し自ら隊長として日本まで同行した。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクト・ペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。
<br /><br />

<iframe width="500" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000441004db1f851569db&amp;s=AARTsJpD4J6BH-BGyeuyB7Ud9eJZZBI9zQ&amp;ll=43.580391,21.796875&amp;spn=143.80149,351.5625&amp;z=1&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000441004db1f851569db&amp;ll=43.580391,21.796875&amp;spn=143.80149,351.5625&amp;z=1&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>

<br /><br />
レザノフは1764年4月8日にサンクトペテルブルクで生まれた。14歳のころには既に5ヶ国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはペテルブルク裁判所勤務、海軍省次官秘書などを務め、1791年には官房長となる。
<br /><br />
このころまでにレザノフは毛皮商人のグリゴリー・シェリホフと知り合った。シェリホフは「シェリホフ＝ゴリコフ毛皮会社」を設立しアラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を行っていた。レザノフは宮廷の腐敗に嫌気がさしており潜在的な活力のやり場がなかったが、この事業に興味を持ちそのパートナーとなり、グリゴリー・シェリホフの娘アンナと結婚して会社と事業の拡大を進めた。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の指導者となった。
<br /><br />
レザノフは皇帝エカチェリーナ2世の末期と新皇帝パーヴェル1世の宮廷をうまく立ち回り、1799年に合同アメリカ会社の経営者となり、同社は1800年に国策会社露米会社に発展した。露米会社設立の勅許が下りたのはパーヴェル1世が暗殺される直前であった。露米会社は20年間にわたりアメリカ大陸北西部の北緯55度以北の海岸地帯、アラスカからカムチャツカに伸びるアリューシャン列島、およびカムチャツカから南へ伸びる千島列島の統治を許可された。小規模な交易会社や毛皮商人をこの地の毛皮交易から押し出した露米会社の勅許は、総支配人レザノフおよび会社の出資者だった宮廷の成員に多大な収入をもたらしたが、まもなく管理の失敗と食糧不足でアラスカ方面の統治は混乱し、会社は大きな損失を出した。
<br /><br />
サンクトペテルブルク<br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/49/126844510_bdf5481125.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
レザノフは露米会社の食糧難打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考えて宮廷に働きかけ、日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなった。1792年に日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされたが、レザノフは正式な国交樹立のために通行許可証である信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長となり、ペテルブルクから出航し南米を回り太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。
<br /><br />
航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫から日本語を学び辞書を作った。1804年9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋から装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。
<br /><br />
シトカに1962年に復元されたロシアの砦の望楼レザノフは1805年4月に長崎を去りカムチャツカへ向かった。カムチャツカには彼に対して極東にとどまり露米会社の営業地である北太平洋やアラスカを視察して混乱を立て直すよう命令が届いていた。この時期、アラスカ海岸ではトリンギット族と露米会社の戦争が続き、1804年のシトカの戦いでようやく事態が収まったところであった。彼はアリューシャン列島伝いにアラスカの本拠であるノヴォアルハンゲリスクに向かい、毛皮の乱獲の防止、会社の規則に違反する社員の処刑、小学校や図書館や栄養学校の開設などを行った。
<br /><br />
サンフランシスコ<br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/186/374979707_5b27b61c3a.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
1806年の春、飢餓に苦しむ冬が去るとレザノフは沿岸に寄航するアメリカ人船長から船を買いスペイン領カリフォルニアへ船出した。この航海には、ヌエバ・エスパーニャとの間に協定を結び、年二回交易を行って食糧難のアラスカにメキシコの食糧を備蓄する狙いもあった。途中大嵐にあったため、当初の目的であったコロンビア川河口付近のロシア領有宣言を行うことはできなかったが、サンフランシスコ港に到達し投錨することができた。
<br /><br />
レザノフは現地のスペイン人たちからの敬意を受け、連日連夜の大歓迎の祝宴でもてなされた。しかしスペイン法によりスペイン植民地は外国勢力との交易が禁じられていることをレザノフは知らされ、カリフォルニアの官僚たちも賄賂・買収に応じず交渉は不調に終わった。この時サンフランシスコで会ったアルタ・カリフォルニア総督ホセ・ダリオ・アルゲージョの15歳の娘、コンセプシオン・アルゲージョと相思相愛となり、ロシア側聖職者の反対も押し切って婚約することになった。
<br /><br />
スペイン政府とロシアとの条約を前向きに考えるよう現地官僚と約束し、サンフランシスコ到着から6週間後、レザノフ一行はアラスカのノヴォアルハンゲリスクへと食糧を満載して帰った。
<br /><br />
彼はアラスカからすぐにカムチャツカへと戻った。彼は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏したがのち撤回した。しかし部下のフヴォストフが単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃する。
<br /><br />
フヴォストフが日本の北方を襲撃している頃、レザノフはスペインとの条約を皇帝に諮るためカムチャツカから出てペテルブルクに向けてシベリアを横断中であったが、長年の航海により疲労し健康を害しており、1807年3月13日クラスノヤルスクで病死する。
<br /><br />
フォヴォストフ事件により日露関係は緊張し、1811年にはゴローニン事件が発生する。
<br /><br />
レザノフのカリフォルニアへの来航は、露米会社の社員や会社の奴隷であった先住民達が飢餓に苦しむことへの同情に基づくものだったが、ヌエバ・エスパーニャではその意図をめぐり混乱が起きた。彼が露米会社を代表して書いた手紙には、北米西海岸を全面的にロシアに併合し本国から即座に大量の移民を送ろうという意図が現れている。もし彼が病死しなければ北米植民地化計画は実行に移されたであろうが、彼が病死したためロシア皇帝はスペインとの条約に調印せず、ロシア領アラスカを立て直す彼の改革も挫折し、困窮するアラスカは次第に衰えアメリカへの売却へと進んでゆく。
<br /><br />
コンセプシオン・アルゲージョはレザノフの帰りを待ったまま誰とも結婚せず尼僧となり1857年に死んだ。
]]></description>
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<pubDate>Tue, 11 Dec 2007 19:28:57 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>神風連の乱</title>
<description><![CDATA[<strong>神風連の乱</strong>は、1876年に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
<br /><br />
1876年10月24日に旧熊本藩の士族太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」により起こされた反乱。この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので、神風連の乱と呼ばれている。なお名誉回復、すなわち贈位後は、「神風連の変」と呼称される。
<br /><br />
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?oe=UTF-8&amp;hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000440b240c1e577d4540&amp;s=AARTsJpQV_6gxRx6u4Ss5Q2Zo49I2rCQVA&amp;ll=32.806322,130.707436&amp;spn=0.025249,0.036478&amp;z=14&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?oe=UTF-8&amp;hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.000440b240c1e577d4540&amp;ll=32.806322,130.707436&amp;spn=0.025249,0.036478&amp;z=14&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
<br /><br />
1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、鎮西鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の鎮西鎮台（熊本城内）を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし翌朝になると、政府軍側では兒玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。
<br /><br />
敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。
<br /><br />
この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる。
<br /><br />
敬神党は、旧熊本藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。
<br /><br />
熊本藩では、教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。
<br /><br />
熊本城<br />
<img src="http://farm1.static.flickr.com/38/74703212_9eab10b933.jpg?v=0" style="border: 1px solid #ddd">
<br /><br />
この敬神党は、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は、多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵したのである。
<br /><br />
なお三島由紀夫は、晩年、神風連の乱に強い関心を持ち、敬神党の思想に共感していたといわれる。
<br /><br />
種田が殺害された際、その場にいた種田の愛妾小勝は負傷しながらも、熊本電信局へ走り、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」と打った電報を、東京の父に送信した。このエピソードは、カタカナのみを使い、短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として新聞紙上に紹介され、当時の一般市民が電報の利用方法や有用性を理解するきっかけの一つになった。
]]></description>
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<pubDate>Fri, 07 Dec 2007 22:19:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>明和事件</title>
<description><![CDATA[<strong>明和事件</strong>は、江戸時代中期幕府による尊王論者弾圧事件である。
<br /><br />
甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で1758年におきた江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件である「宝暦事件」に連座した藤井右門は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩の内紛にかこつけて両名を逮捕し、1767年不敬罪として大弐を死罪に、右門を磔刑に処した。磔刑（たっけい）とは、罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰のことである。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内式部にも累を及ぼして遠島、つまり流罪に処せられた。
<br /><br />
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?oe=UTF-8&amp;hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.00044064096dd5c686dc5&amp;s=AARTsJrcSUD0FwqYPWKsYHoZh3JrPb2Anw&amp;ll=35.835628,139.196777&amp;spn=3.117131,4.669189&amp;z=7&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?oe=UTF-8&amp;hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;msa=0&amp;om=1&amp;msid=113984595681420237076.00044064096dd5c686dc5&amp;ll=35.835628,139.196777&amp;spn=3.117131,4.669189&amp;z=7&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">拡大地図を表示</a></small>
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甲斐国：かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東海道に位置する。現在の山梨県にあたる。甲州と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。
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江戸：東京の旧称である。特に、江戸城を中心とする東京特別区中心部（東京都千代田区周辺）を指す。
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小幡藩：上野国甘楽郡小幡に存在した藩。藩庁は小幡陣屋（のち小幡城　現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡）に営まれた。
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<pubDate>Tue, 04 Dec 2007 01:07:02 +0900</pubDate>
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